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不登校 「学校が唯一」の呪縛を解く ノンフィクション作家・稲泉連

空き教室を利用した「ステップルーム」。不登校の生徒はここに来て、時々、教室に行く=福岡市内の中学校

 一昨年度、不登校の小中学生の数が14万人を超えたという。もう四半世紀前のことになるけれど、私も中学生の頃から人間関係や違和感に悩み、高校1年の2学期から学校に行けなくなった。小幡和輝著『学校は行かなくてもいい』、末富晶(しょう)著『不登校でも大丈夫』の2冊は、そんな15歳の当時の自分に贈りたいと感じた作品だった。

 前者の著者は小学校から不登校を経験、定時制高校に入学して起業した。その彼は学校以外の居場所をどう作ってきたのか。自分以外の様々なケースの体験談も紹介しつつ、親子の次の選択の助けになる考え方を丁寧に伝えている。後者の末富氏は不登校の後の紆余(うよ)曲折を経て、現在は生け花アーティストとして活動している。彼女の手記は子供の頃の漠とした気持ちを見つめ直し、率直な言葉に変えたものだ。得体(えたい)の知れない違和感に苛(さいな)まれてきた著者が、〈学校に行かない時間〉にいかに育てられたか、という気づきを得ていく過程に好感を覚えた。

思い受け止める

 こうした当事者の本を手に取って実感するのは、親でも教師や周囲の“誰か”でもいい、学校に行けないという子供の懸命な選択をまずは受け止め、ともに将来や目標について考えてくれる大人や専門家の存在がどれほど大切か、ということだ。

 不登校には様々な事情や背景があり、年齢や家庭環境によっても参考になる本は異なる。だが、どのようなケースであってもその選択には大変なエネルギーが必要であり、当事者は「学校に行きたくても行けない自分」との闘いに疲れ果て、身動きがとれなくなっていることが多いと思う。よって復学を目指すにしろ、別の道を探すにしろ、最初に必要なのは現状と向き合い、自分で何かを選択するための心の余裕であるに違いない。例えばその中で親との不毛な対立が始まってしまうと、家が体調を整えるための場ではなくなってしまうことが、様々な体験談から浮かび上がってくる。

 読みながら、私の場合も母がその選択をひとまず受け入れてくれたことを思い出さずにはいられなかった。ある日、「もう学校には行かない」と告げようとしたとき、言葉にならない悲しみや罪悪感に襲われ、布団を被(かぶ)ったまましばらく蹲(うずくま)っていたのを覚えている。すると、「少し休んでから本屋さんで次にどうするかを考えてみたら?」と母は察するように言った。

 書店で本を買い込み、大検や不登校の体験者の話などを読んだ。納得できる本もあれば、自分には合わないと感じた本もあった。ただ、小幡氏が指摘する通り、必要だったのはそれらの本や情報を自ら探し、「学校」という場所の意味を相対化して考えてみることだったのだろう。その時間を通して、私は「学校が唯一の選択肢」という自分を苦しめていた思いから解放されていった気がする。結果的に地元で頼りにしていた塾に相談して大検を受けたのだけれど、「学校に行かないこと」も「学校に行くこと」と同じ選択肢の一つなのだと感じられたとき、強張(こわば)っていた気持ちに余裕が生じ始めたように思うのである。

多様な成長の形

 不登校経験者が記者を務めた全国不登校新聞社編『学校に行きたくない君へ』は、西原理恵子さんやリリー・フランキーさんなど、各界の20人が不登校に悩む子や親にエールを送るインタビュー集だ。前の2冊を含め、彼らの多くが異口同音に語るのも、「社会」に出るための成長や学びの形は、我々が思う以上に多様だという、ときに厳しくも心のこもったメッセージである。いくつもの真剣なメッセージに繰り返し触れるうち、こうした言葉が豊かに語られ、実際にもそうである社会であって欲しい、と思った。=朝日新聞2019年5月18日掲載