小さい頃から、写真に撮られることが苦手だった。大学時代に所属したサークルは、記録用も含め写真をよく撮る団体だったが、私はそこにあっても被写体にならぬよう逃げ回り、シャッターを押す係に進んで名乗りを挙(あ)げた。だがこの時に写真嫌いを克服しておかなかったのは、今から思えば過ちだった。
三十歳を過ぎ、作家デビューしてみると、取材やインタビューなどの仕事には、かなりの割合で写真撮影が伴う。しかも学生時代とは異なり、「私がシャッターを押すので、さあ、皆入って入って」とは行かないのだ。
編集者さんによれば、先輩作家さんの中にはプロのカメラマンにプロフィール写真を撮ってもらい、それを各媒体に使う方もおいでという。なるほど、と膝(ひざ)を打ち、私は早速写真館に電話した。用途に合わせた撮影を提案下さるとの説明に、これはぴったり――と思ったら、甘かった。
実は私は一年を通じて、ほぼすっぴん。若い頃はもう少し化粧をしていたが、この十数年はノーメイクの日々だ。そんな私に写真館の方は、「せっかくのプロフィール写真ですから、ごく薄くだけでも」とメイクさんの手配をご提案下さった。
「では、ごく薄くなら」と応じ、いざ当日。化粧をしてもらって、驚いた。そうだ。すっかり忘れていたが、私はほんの少しのメイクでも、かなりはっきりした顔になるのだった。とはいえ今更、化粧なしでとも言えない。数日後、仕上がって来た写真はとても綺麗(きれい)に撮れていたが、写っていたのは普段の私とはほぼ別人のくっきり顔の女性であった。
それでも、「せっかく撮ったから」とその写真を半年ほどはプロフィール用に使ってみたか。だが縦から見ても横から見ても、やはりそこに写っているのは「私」ではなく、結局この写真はお蔵入りとなった。
うまく撮られるとは、それ自体が一つの技術なのだ。ならば自分にはつくづくそれが欠けていると省みつつ、私は使えぬプロフィール写真を時折一人でこっそり眺めている。=朝日新聞2019年5月22日掲載