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生を喰らう 青来有一

 長崎市の中心部からクルマで二十分ほど、山一つ越えたところに茂木漁港はある。橘湾に面したこの地域は東向きで日当たりがよく、大粒で甘い「茂木びわ」の産地でもある。漁港周辺は木造の家々が集まった漁村の鄙(ひな)びた風情だが、湾岸の道路沿いに数軒の料亭がならんでいる。客室の窓のすぐ下に海面がゆれている料亭だ。春の宵、客室の窓から二匹のエイを見た。たぶん交尾期だったのだろう、褐色と白の表裏をひるがえして海中でからみあいながら泳いでいた。

 結納などの祝い事にも使われるが、かしこまった料亭ではない。黙々とうつむいてみな料理を食べる。刺身や浜焼き、新鮮な魚介類は素材の味を生かすために凝った手はくわえていない。躍り喰(ぐ)いはその最たる料理だろう。

 春先にはシラウオを酢醬油(すじょうゆ)で呑(の)む。ただシラウオ漁の期間は短く、薄桃色をした小エビが供されることが多い。水をはった白い陶器の器の中でじっと緊張している小エビたちの中の一匹をつかみ、身をとりだして醬油をちょっとにじませる。潮の味の淡泊な身はほのかな甘みもある。まさに「いのち」そのものの味だが、手の中でひくひくと暴れるエビの尖(とが)った頭部をつまみ、背の方にぐっと折ってもぎとるのは、慣れない人には抵抗があるだろう。子どもは「かわいそう」と涙ぐむ。食文化と納得していながら「私」の回路もどこかがショートして、青白い光が複雑な想念を照らし出す。たとえば宮沢賢治の「よだかの星」、喉(のど)にはいった甲虫を呑みこんでぞっとするよだかの嘆きだ。

 「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹(たか)に殺される。それがこんなにつらいのだ」

 生きることは「いのち」を食べることで、私たちの生の跡には死が累々と列をなし、その私たちも私たちの存在を超えるなにものかに喰われてもおかしくはない。喰ったものの罪は喰われることであがなわれるのか。喰われたものの悲しみはそれで消えてしまうのか。埴谷雄高は『死霊』(七章 最後の審判)で、いのちの世界のその悲惨さをあいまいにしてしまう食物連鎖を「罠(わな)」と呼んだ。

 活(い)き造りにアラ煮、てんぷらにさざえの浜焼きなど次々に平らげ、食後のびわの果汁で指をぬらすころ、子どもも涙ぐんだことなど忘れている。人々は満ち足りてぼんやりとして、だれかがゲップを吐いたら生き返ったように笑う。その姿はどこか寂しい。たぶん文学のせいだ。食べることの快楽と戦慄(せんりつ)を照らし出してしまうのが文学なのだ。窓の外では日はすっかり落ちて海は暗い。交尾のエイも闇の底に沈んでしまった。=朝日新聞2019年6月1日掲載