二十六年前、つまり一九九三年、『神々の山嶺(いただき)』の取材で、エヴェレストまで行ったおりのことだ。
エヴェレストといっても、標高八八四八メートル、世界最高峰のてっぺんまで行こうとしたのではない。残念ながら、二十代の一番元気な時でさえ、ぼくはエヴェレストの頂を目指すだけの体力も技術もなかった。わかりやすく言えば、やったのはトレッキング。標高五三六四メートルのベースキャンプまで出かけていったのである。
それでも、高山病になった。
高山病とは何か。薄い酸素を呼吸することによって酸素不足となり、身体に様々な変調があらわれてくる。たとえば頭痛、幻覚、幻聴、食欲不振、吐き気はまだ症状としては軽く、ひどい時には眼(め)が見えなくなり、肺水腫や脳浮腫になる。
息をするたびに、喉(のど)や肺がごろごろ鳴るようになったらまず助からない。
そうならないために、高度順応ということをする。日本にいる間に、高い山――たとえば富士山などに登って、薄い酸素に身体を慣らしておくのである。血液の中には、ヘモグロビンというものがあって、こいつが、呼吸によって肺に入ってきた酸素を血液中に取り込んでゆくのだが、標高があがればあがるほど空気中の酸素濃度が低くなって、体内に取り込むことのできる酸素の量が減ってしまうのである。ちなみに標高五四〇〇メートルでは、地上の二分の一くらいしか酸素がない。
しかし、高度にあらかじめ身体を慣らしておけば、血液中のヘモグロビン数が増えて、体内に取り込む酸素の量が自然に増えるということになる。
だが、この高度順応が理屈ほどうまくいくわけではない。個人差もある。ぼくの日常は、海抜ゼロメートルといってもいい小田原にあるため、この高度順応がなかなかうまくいかない。
エヴェレスト街道のナムチェバザール、標高で言えば富士山くらいのところから頭痛が出、食欲不振となり、食事ができなくなった。好き嫌いなどほとんどないのに、シェルパの出してくれる現地食が食べられない。日本食風のものも時には出してくれるのだが、その中にわずかにある現地の香料の香りが邪魔をして手をつけられないのだ。
あっという間に五、六キロ痩せて、十日近くをかけて、やっとたどりついたベースキャンプ。なんとそこには、日本の登山隊が、エヴェレストの南西壁を落とすために滞在していて、そこでぼくはヤキソバをごちそうになった。これがうまかった。ソースの匂いに感涙。まるまるたいらげて、ずうずうしくも一泊させてもらい、翌朝もまた日本食。これでなんとか生命をつないで、どうにかカトマンズまで帰りつくことができたのである。=朝日新聞2019年7月27日掲載