好物は……ご馳走(ちそう)と言われるものはたいてい好きだが、一つを挙げろ、と言われれば、握り寿司(ずし)である。
子どものころ父が宴会かなにかのみやげなのだろう、折り詰めの寿司を持って帰って来る。たいていは夜遅く、もちろん夕食のすんだあと、床についてるときもあったろう。こちらの状況にかかわりなく、私は貪(むさぼ)って堪能した。
ある夜、当時、兄姉は家を離れ、母と二人で父の帰りを待つことが多かったが、父の手には寿司の折り詰めが二つもぶらさがっていた。
「あなた、食べなさいよ」
母はほんの少し。私は二折をあらかた食したのではなかろうか。
明け方に腹痛、下痢……。母も苦しんだが、私のほうがひどかったろう。父は平気だったのかどうか。朝にはいつも通り会社へ出て行ったが、母と私は雨戸を閉めたまま布団に入っていた。
コツ、コツ、コツ、雨戸を叩(たた)く音がして、開けてみれば巡査が立っている。
「ご無事でしたか」
前夜の宴席の客に(その家族に)食中毒が出て、警察が次々に見まわっていたらしい。死者も出たらしい。私としては二折をほとんど独り占めにして、ひどいめにあったが、握り寿司への愛着はけっして衰えることはなかった。
初めてカウンターで、つまり寿司の握り手が目の前にいるところで食べたのは、はっきり覚えている。私的な事情を記せば私は東京育ちであったが、小学四年生のころ、戦禍を避けて家族ともども新潟県の長岡市に疎開し、そこで終戦を迎え、中学を終えて東京に戻った。その中学三年生のとき、
「東京へ連れていってやる」
仕事で上京する父に連れられて五年ぶりの……昭和二十四年の旅だった。後楽園球場で巨人・阪神戦を見て、これも初めての体験だった。その帰り道水道橋の駅近くの寿司屋だった。
これが、うまいのなんの、父が「いくら食べてもいいぞ」と言うので、たっぷりと注文して食べた。が、あとで、
――お父さん、ずるいよ――
母には「高のやつ、いくらでも食べやがって」なんて。前言を違(たが)えてはいけません。
それから七十年、どれほど食べたかわからない。思い出はいろいろある。
北海道はなべて魚はおいしいが、握り寿司はシャリが大きいので、老いてしまうと、いろいろ食べられない。それが残念だ。
二、三年後のことだろうが、
「棺おけには上寿司を入れてくれよ」
と言っているが、子どもたちは合理主義者なので、
「どうせ焼くんだから並でいいか」
そんな意見にまとまりそうで、近所の寿司店には「特上を」と頼んである。=朝日新聞2019年8月24日掲載