もともと角田光代さんのエッセイが大好きなのだけれど、先日、『恋するように旅をして』(講談社文庫)という旅エッセイ集を読み返した。スリランカや、ミャンマー、ベトナムなど、いろいろな場所を旅していて、土地土地での一場面を丁寧に切り取っている本だ。
その中で、モロッコを旅した角田さんのこんな文章が心に残った。
異国を旅するたびに、そこにある空の表情が違うといつも私は思っていて、そういえばここモロッコの、世界全体に蓋したような巨大な空は、何か意志を持ってこちらを見下ろしているように思える。(略)私はこの国の人々の宗教を感覚的に理解することはできないが、この巨大な視線を持った空を、私の知っているほかの言葉で表現しようとすれば、神という言葉がもっとも近しいように思える(192-193ページ)
旅先で私がつねに興味を抱くのが、その場所に存在する神さまで、特定の宗教を持たない私は彼らの神さまを頭ではなく感覚として知りたくて、どこへいってもすたれていない宗教施設を訪れる。石造りの壮大な教会や圧倒されるほど繊細なステンドグラスや、ゆったりと微笑む極彩色の仏像や、尖塔に宝石を埋めこんだきらびやかな寺を、自分でもよくわからない期待を持って訪れては、きまって同じ感想を持ってそこをあとにすることになる。(193ページ)
基本的に無宗教の私だが、この感覚はとてもよく分かる。ヨーロッパに行けば、教会、中東に行けば、モスク、アジアに行けば、寺(まぁ、実際はそんなに単純な構図ではないのだが)。人々の祈りや精巧につくられた建築をこの目で見て、厳かな雰囲気を肌で感じるために、その土地の宗教施設を観光目的で訪れることが多い。
個人的に、宗教をめぐる旅で印象深いのは、熊本県の天草を訪れたときのことだ。熊本市内からレンタカーを走らせて、およそ2時間半。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたこともあって、こぢんまりとした港町は活気づいていた。
島原・天草一揆(1637~1638年)の後、江戸幕府国よりキリスト教が禁じられているなか、信仰を続けた“潜伏キリシタン”。ゴシック様式ながら畳敷きの﨑津教会や、潜伏キリシタンが発覚した「天草崩れ」(1805年)の舞台となった﨑津諏訪神社、歴史史料館などをめぐると、高校日本史の教科書レベルの知識しか持ち合わせていなかった彼/彼女らの存在が、リアリティを持って感じられた。
教会の見えるチャペルの鐘展望公園へと続く約500段の階段を昇り、﨑津教会や漁港を見下ろす。あの時は曇天だったからかもしれないが、そこから見える景色はふんわりとやさしく何かに守られた感じがした。本当に1枚の絵画を見ているようで、あぁここにも「神」がいるのかなと思ったのを覚えている。
なんだ、からっぽじゃん。それは神を知らない私の浅薄な感想だと今まで思っていたけれど、モスクもない、アザーンも聞こえてこない、音のない山道で空を見上げ、私は神というなじみのない言葉を思い浮かべている(193ページ)
角田さんはこう書き記していた。私の中で、モロッコと天草が、不思議とつながった。