――これまでにも原作のある映画に出演されてきましたが、今回の「蜜蜂と遠雷」は、原作小説の人気度、そして作品世界を映像化する難易度、どちらもひときわ高い作品ではないかと思います。松岡さんは、原作は読んでいたのでしょうか。
私はもともと恩田陸先生の大ファンで、『蜜蜂と遠雷』も直木賞と本屋大賞をW受賞という初の快挙を達成した作品ということで、手元に置いて読むのを楽しみにしていました。ただ、実写化で主演のお話が来ていると聞いたのは読むより先で。恩田先生の作品を尊敬しているし、大好きだからこそ、最初はうれしさや喜びよりも責任感と不安のほうが大きかったです。
いざ小説を読み始めると、それまでに経験したことがない読書体験でした。音も鳴るし、目の前にコンクールの光景が広がって、鼓膜が揺れるようだし……。読めば読むほど、読書の楽しさとともに、不安が大きくなる一方だったのは確かです。
でも、この小説が映像化されると決まって、私に主演を任せてくれたからには、できうる限り以上のことをしなくてはと思いました。恩田先生がたくさんのコンクールを取材して、何年もかけて書かれた素晴らしい本を、中途半端に映像化することだけは絶対にできないなと。
――恩田作品の熱心な読者でもあるからこそ、並々ならぬ思いを持って映画に臨まれたんですね。松岡さんが演じる主人公の栄伝亜夜は、幼い頃から国内外のコンクールを制してきた元・天才少女。母親の死をきっかけに表舞台から姿を消していましたが、再起をかけて芳ケ江国際ピアノコンクールにやってきた人物です。演じるにあたってどのように役にアプローチしていったのでしょうか。
栄伝亜夜という人物像は確実に原作の中にあるので、役作りに関しては難しかったということはほとんどありません。それよりも映画全体のこと、「映像化してよかった」と恩田先生に思ってもらうにはどうしたらいいかということのほうが気になって、それを日々模索して葛藤していたように思います。だから映画が完成して、予告でも使われている恩田先生のコメント(「映画化は無謀、そう思っていました。『参りました』を通り越して『やってくれました!』の一言です。」という言葉)を最初に読んだときは、泣けてしまいました。
私自身も試写を見たら、監督が最初に私たちにおっしゃっていた、「2時間程度の、疾走感のある作品にしたい」という言葉通りの仕上がりになっていて。ひいき目かもしれませんけど、「これは原作ファンの方にも納得してもらえるかもしれない」と思えました。
――松岡さんが考える栄伝亜夜というキャラクターについて、ぜひ具体的に教えてください。
私のイメージでは、亜夜は水族館にあるような、分厚いガラスを常に身にまとって暮らしている人です。原作の亜夜には、唯一自分の心の内を吐き出せる友人がいますが、映画では登場しません。だからコンクールの一次、二次予選では、観客のことはほとんど意識せず、「自分とピアノとの対峙」を人にたまたま見せる、くらいの気持ちで弾いていました。でも本選では、孤独な天才少女が一人のエンターテイナーに変化します。その姿を映像として見せたいと思いました。
この映画では亜夜をはじめ4人の天才ピアニストが登場しますが、一口に天才といってもそれぞれ戦い方もバックボーンも違います。彼らは一人だったらおそらくここまで成長していなくて、これだけパターンの違う4人の才能が出会ってしまったことで、苦しみもあったけど、普通の人が何年もかかる道のりを短い時間で飛び越えていった。その瞬間というのは本当に痛快で、きっと見ていて興奮すると思います。
――映画では、世界の第一線で活躍するピアニストが演奏を担当していることも注目点の一つです。亜夜のピアノは、ドイツを拠点に活動する河村尚子さんが演奏しています。演じる上で、河村さんの音に触発された部分も大きかったのでしょうか。
今回、演奏の収録現場へ聴きに行くことができたのですが、そのときの河村さんの動きなどを見て得たものは多かったです。
例えば演奏シーンの中で、休符の後にどうしてもうまく入れないところがあったんですね。何回やっても、音に対して手の動きが遅くなってしまったり早くなってしまったりする。どうしようと思っていたときに、河村さんが演奏する映像を確認したら、弾き始める前に一回手を浮かせて、休符でも拍を取っていたんです。それを真似したら、入れたんですよ。
あと、私は亜夜はどちらかというと穏やかな子だと思っていたんですが、河村さんの演奏を聴いて、内にすごく恐ろしいものを秘めている、怖さのある天才なんだと感じました。特に、コンクールの委嘱作として物語の中に登場し、今回の映画のために作曲された「春と修羅」という曲の最後の高音の連続。それは警鐘に聴こえるくらい恐ろしいピアノで、私が思っていた以上に抱えている闇が濃かった。河村さんが奏でる音を通して、役を作ることに対してのアプローチを一つ学んだ気がします。
――「天才ピアニスト」という存在を、説得力をもって表現することについてはどう考えたのでしょうか。
圧倒的に秀でた存在ということでは、役作りの工程で一番近かったのが、映画「ちはやふる」で演じた、かるたクイーンの若宮詩暢(しのぶ)ちゃんです。どちらの役でも、天才ということを記号みたいに扱うことは絶対にやりたくありませんでした。
演じるときの糸口になるのって、彼女たちが日々思っていることを想像することなんですよね。自分がかなり秀でているということをおそらく理解はしているけど、ほとんど無自覚で、それでいて孤独。私たちが普段考えることや、嫌な気持ちになることとは、全然違うところで傷つく。そして多分、理解者がいないということが一番つらいのではないか。それでどんどん孤独の壁を積み上げて、水族館のガラスくらい分厚くなってしまった。
どの役でも、大事なのはその人がどう生きてきたかをたどるということ。天才だからとか、それこそ犯罪者だからどうということではなくて、とても平凡な女の子を演じるときであっても、天才を演じるときであっても一緒なんです。