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フルポン村上の俳句修行 歌人があえて俳句をたしなむ理由とは?

文:加藤千絵、写真:斉藤順子

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 「歌人がやっている句会がある」とのうわさを聞きつけて9月15日にやってきたのは、東京・西日暮里にある喫茶店の一室。ここで歌人の堂園昌彦さん、俳人の小川楓子さん、生駒大祐さん、大塚凱さんによる企画集団「真空社」が主催する「真空句会」が、不定期で開かれています。

 真空句会が始まったのは昨春。堂園さんが俳句に興味を持ち、古本屋で見つけたアンソロジーからおもしろいと思った句を引用してツイートしていたところ、友人の小川さんから「勉強会とかやりませんか」と誘われたのがきっかけです。「やるならゴリゴリにやろう、ということで俳句の歴史を全部教えてください、って言ったんですね。そしたら詳しい人を連れてくる、ってことで生駒さんと大塚さんを連れてきて、じゃあ句会もやってみようということで始めました」

歌人の堂園昌彦さん
歌人の堂園昌彦さん

 俳句は「外国人観光客として」、隣の国を訪れるような気持ちでやっているという堂園さん。「隣の国だからすごく親しい気持ちもあるんですけど、やっぱりルールが全然違うので、いちいち『食べてるものが違う!』とかで驚くことが多いんですね(笑)。でも分からないところを2人に聞いていくと、よく分からないルールで動いてる別の国だったのが、ここにも一つの通底する美意識がいちいち働いてることが分かって、めちゃめちゃおもしろくなったんです」。そんな堂園さんの影響を受けて、生駒さんも「歌人が句会に加わることで、『これはこうだよね』っていわゆる暗黙知みたいに思ってたものが、『実はおかしなルールだよね』って可視化されるんです。なので、俳人にとっても有意義な場になっていると思います」と話します。

 メンバーはツイッターやメルマガで毎回募集をかけていて、俳人も歌人も初心者も、川柳をやっている人が来たこともあったそう。この日は村上さんのほかに真空社の3人(小川さんは欠席)と俳人・歌人5人の計9人が参加しました。

 事前に3句を提出することになっていて、今回のテーマは「体に良い句」と「体に悪い句」、そして自由題でした。ちなみにテーマの解釈は自由。村上さんが提出したのは以下の通りです。(原文ママ)

・体育祭前夜の鏡磨きけり(体に良い句)
・ピアノとして閉じ込められた楓かな(体に悪い句)
・繋ぐ手と手から溢(こぼ)れる秋夕焼(自由題)

 作者の名前を伏せて句だけをまとめた紙が配られ、その中から特選1句を含む3句を選び、句会がスタートします。この日は選が分かれ、3点を取った「灯を消して葡萄が紫とわかる」が最高点でした。進行は前回の句会で最高点を取り、「九代目真空」になった西生ゆかりさんです。

西生:特選でお取りになった堂園さん、どこがいいと思いましたか?

堂園:葛原妙子の短歌で「口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも」っていう歌があるんですけど、葡萄っていうのが、よくわからないんですけど内省的なところを促すような果物の感じがして。紫って色もそうなんですけど、そういうところが相まって、暗くなってむしろ本質が分かる、みたいなところが視点としておもしろいと思いました。

相田奈緒:灯りを消したときの方が割と色が分かる、ってところが葡萄を単純に食べ物としてじゃなくて物質的にとらえている感じがして、その感覚にひかれました。

村上:テレビで見た好きな話で、黒い染め物の人が「黒が2つあったら、より黒い黒以外は黒じゃなくなる」みたいな話があって。この句を見て、それだと思って映像が浮かんで、よかったです。

生駒:僕は単純に、なぜ灯を消せば紫になるのか分からなかったです。弱い灯しの方が色がより分かる、っていう句なのか。それだと「灯を消して」っていうことにはならないので。

大塚:そもそもリアリズムではない気がして、かなり心象的なところを含んでいる句なのかなと僕は読みましたね。「黒きまで紫深き葡萄かな」って正岡子規の句があると思うんですけど、あれはかなり物質的に見ている目線だと思うんですけど、この句はむしろそれを引きずりながら、心象の方にずらして書いたみたいなタイプの句なのかな、っていう解釈をしました。

西生:どなたの句でしょうか。

神山:刻(とき)です。これは夜食的な意味で、「体に悪い句」で作りました。食べたくなってくる的な意味ですね。

「九代目真空」の西生ゆかりさん
「九代目真空」の西生ゆかりさん

 同じく3点を獲得したのが、クズウジュンイチさんの「さるすべり顔は麻酔に膨らんで」と西生ゆかりさんの「干柿をくれる手相も観てくれる」。干柿の句は、「を」と「も」で議論が盛り上がりました。

寺沢かの:読んだときのリズムがすごく好きだなと思って。知り合いのおばあさんか誰かに会いに行ったら干し柿をくれて、手相も見てくるっていう感じがして面白いと思いました。

クズウ:対句で書かれているであろう、とは思いました。「くれる・くれる」で韻があって、干し柿の「干」の字と手相の「手」の字の文字上の近似も効果があると思います。ただ逆に、対句でなくて「くれる」が連体形で後ろにつながっていって、「干し柿をくれる手相」っていう、人にものをあげやすい手相があって、そういう手相すら見てくれるよ、って入れ子構造にかけてるような読み方をするとなお、おもしろい。

村上:ほのぼのしてるっていう情景としてもおもしろいし、リズムとしてもおもしろいですよね。むちゃくちゃ深読みっていうか、僕的な読み方をすれば、どちらも迷惑にも思える。干し柿をもらってもな、っても思うし、手相もちょっと勝手に見なくていいんだけど、とも思うっていうのがいいなと思いました。

一同:(笑)

クズウ:言いそびれたけど、「手相も」がよかったのか。「手相を見てくれる」の方が、対句としてはきちっとはまったかなって気もする。「も」を入れちゃったから変な物語性っていうか、最後にコショウを振ったら多すぎちゃった、みたいな感じがするので、「手相を」できちっと対句にした方がよかった気がしなくもない。

西生:でも、「も」の方がありがた迷惑感が出る。

生駒:「を」より「も」の方が結果としてよかったんじゃないかと思いました。「を」の方が対称性はできるんですけど、そうすると並列になりすぎて同じ人がやったってことが言われなくなっちゃいますよね。一方で悪いところが、ちょっと「も」に理がつくっていうか、すごく意味が出るんですよね。村上さんがおっしゃった「イヤイヤ感」が出るんですけど、それが言い過ぎって解釈の人もいるだろうなって。ちょっと意味合いが強すぎて僕の俳句的には受け入れにくいです。

真空社の生駒大祐さん
真空社の生駒大祐さん

 ほかにも「ちゃんこ番の隠れポテチや十三夜(寺沢かの)」「空咳や夢に酢橘を置き忘れる(堂園昌彦)」「水呑めば秋の渚を痩せてゆく(大塚凱)」「六波羅探題跡露がみな縦に落ち(生駒大祐)」など、それぞれがユニークな解釈で作った「体に良い/悪い句」が出そろいました。

 村上さんは、というと「体育祭前夜の鏡磨きけり」に1点が入ったのみ。「明日イベントがある前夜の、微妙な心持ちと鏡が響く」「体育祭が好きなのか嫌いなのか、伝わってこない感じがいい」との評価でした。体に悪い句として作った「ピアノとして閉じ込められた楓かな」は、いまいち意図が伝わりきらなかったようでした。

村上さんと真空社の3人が俳句と短歌を熱く語る

――「体に良い句」「体に悪い句」っていうテーマがおもしろかったですね。

村上:めちゃくちゃむずかしかったですね。楓の句は、「楓はきれいだな」でいいのに、材木としてピアノに閉じ込められたっていう。そんなこと考えるのって、不健康じゃないですか。坂本龍一さんのドキュメントを見てた時に、震災で壊れたピアノを見て、「ピアノとしては壊れてるんですけど、これどっちなんだろうね、木は元々の本来の力に戻ろうとしてるのかもね」って言ってたのを俳句でやろうとしたんです。

生駒:発想の中心はおもしろそう。それを言いおおせたらすごい。

村上:自分じゃテーマにしないだろうな、っていう題がある方がいいですよね。僕やっぱり、毎月句会をやらせてもらってるのと、俳句の番組に出てるので、自分から俳句とか短歌作ろうとかあんまないから、マジで自由ってなったときに何から手を付けるんだろう、っていうのは思っちゃいますもん。

堂園:でも正直、歌人的には真空句会はテーマがむずかしすぎて、すごいイヤになるんですよ。普通に季語を使って俳句を作るだけでもむずかしいのに・・・・・・。だから、だんだん歌人の参加者が減ってるんですよね(笑)。生駒さんとか大塚さんとか、もう飽きてるから余裕のある神々の遊びみたいな感じなんですけど、我々初心者はもうちょっと簡単な題がいいなと思ってます。

一同:(爆笑)

生駒:もっと意味が分からないのも過去にあって。「マーブル状の句」とか。

大塚:僕が出したやつで、「すでにある句を想像した上で、その句の5秒前と3時間前と12時間後の句を書いてください」みたいな。でも時間の動きっていうのは、「一句を踏まえて」っていうのが本質だったかなと思っていて。そこのにおいっていうか、香りづけがなんとなくある。それを借りて書き続けていく、みたいな。波が波を追うじゃないですけど、それをある意味で可視化したいところがあって。

生駒:「俳句って何だろう」ってところをどんどん重ねていった末に抽象的な題になったりとか、メタ的な題になったりっていうのはウチの句会多いですね。

堂園:でも句会に出るとそういう理解が進む気がしますね。一人で本を読んだり俳句を読んでるだけじゃなくて、いろいろごちゃごちゃ言い合って、2人の言ってることが分からないなりにも聞いてると、ちょっと俳句分かったかも、って思っておもしろいですね。

村上:毎月句会に参加してるんですけど、いつもに増して、舌戦に対してすっごい見えない戦いみたいな状態の時がいっときありましたね、今日。お2人の考察がすごいところに行き過ぎてて、「何しゃべってるんだ」ってなった時がありました、一瞬。でもそれが僕はおもしろいんですよ。なんだか分からないけどなんだか聞いてたいし、聞いていられるんですよ。

堂園:私と村上さんはたぶんちょっと近いんですよね。そんなに俳句っていうところで自分を作っていないので、やっぱり分からないことも多いんですけど、なんか根拠があって言ってるなってことは分かるんですよ(笑)。

――確かに今日はみなさんの読みがすごくて、俳句は作り手ではなくてむしろ読み手のもののようにも思えました。

村上:僕が俳句も短歌も両方やってみて思うのは、俳句って季語自体が歴史をもってるじゃないですか。今までこう使われてきてる、っていう文化みたいな部分を背負ってるので、例えば同じ「雪」を短歌で使ったからって俳句のようには誰も思ってくれない。そういうのはおもしろいなって思います。

生駒:村上さんがおっしゃったように季語は歴史性を背負ってるっていうのがあって、それは「桜」とか「花」って言葉を使えば、過去の桜とか花の句が連想されてそのイメージも重ね合わさって、句が大きく見えてくるっていうのがあります。あとはすごく省略されてるので、暗に読み取るっていうのが俳句のメカニズムに入っていて、ふつうの17音より広がって、余白があって読めるところがあります。

大塚:一言に対して、江戸以来の蓄積みたいなものがその中に入っているというか。今回の句会も「誰誰の句のにおいがするよね」って話があったと思うんですけど、そういう香水みたいなものを言葉にまとわせながら、その力を借りて少ない言葉で書いてるっていうところがあります。そういう意味では、文脈とか背負ってる蓄積をある程度仕入れた上で書き出さないといけないので、今だけじゃなくてこれまでをだいぶ読まないといけないというか、そういう力を借りて僕らも日ごろの1句1句を詠んで、鑑賞しておもしろがってるってところがありますね。

真空社の大塚凱さん
真空社の大塚凱さん

堂園:私がこの1年半くらいで俳句を学んで思ったのは、もともとこういうのが表したい、と思って俳句の器に入れようとするとやっぱり小さいんですよね、どうしても。そうじゃなくてさっき村上さんがおっしゃったように、季語自体にずっと歴史があって、単に「虹」とか「秋」とか「桜」って言っただけでもそれは後ろに1000句くらいあるんですよね。短歌だったらその一つの言葉が単に「虹」としか機能しないんだけども、俳句はその言葉の一つにデータベースがぜんぶタグ付いて紐付いてるんですよね。微妙にそういうのを思い出すと、一語の「虹」としか書いてないんだけど、実際には何万字分もの情報量が入っていて、それを読み取っていくうちに、こういう言い方もできるとか、単に石を掘っただけなのに角度を変えるとちょっとずつおもしろい、みたいなことがいろんなところで発生するんですよ。

 短歌はどうしても自分の物語というか、自分が作る感情の揺れとか、自分が作っていく特殊なシチュエーションの心の動きようを「七七」があることで表せるんですけど、俳句でそれをやるには小さすぎるから、まず言葉があって季語があって切れがあって、散文だと「これって関係あるんですか、ないんですか」ってハッキリしないと読めないことも、俳句の場合は「あるけどない」みたいなこともできるんですよね。昔はこういう俳句があったからこれはこういう意味なんじゃないかとか、最近こういう出来事があったからこういう意味なんじゃないかって、いろんなところで作っていけるところが、短いけれども豊か、みたいなところにつながっているんじゃないかと思います。

――俳句をやっていて短歌に生かされることはありますか?

堂園:生かされないです。生かさない、ってところが大事だと思うんですよ。やっぱり歌人と俳人は違って、短歌が得意な人と俳句が得意な人はちがって、どっちかしかできないと思うんですよ。ただ隣だからおもしろいし、参考にはなるけど、それを生かそうとするとよこしまな感じがしてあまりよくないなと思って。

大塚:たまに(歌会に)遊びに行くんですけど、影響は受けてると思いますけどね。僕も口語活用で俳句を書いていて、蓄積って点では短歌の方が口語の歴史が分厚いので、それを聞きに行くみたいな思いはなきにしもあらずです。でも学んで吸収できることはあるんですけど、それを使おうと思った瞬間に歌会自体がおもしろくなくなる。だからあまり欲は出さない方がいいです。

生駒:僕の解釈では「五七五」と「五七五七七」って近い文芸なのに、どっちも大成した人がいないとか、融合しなかったのは理由があるはずで、それは本質的に何か違うものがあって、生かそうというか交ぜようとすると濁っちゃうというか。そういう意識はすごくありますね。

堂園:そう思って初めて俳句がおもしろくなってきて、解像度が上がった感じがしたんですよ。昔は参考にしようとか、短歌の延長で俳句をとらえてたんで、全部ぼんやりとしか見えてなかったんですけど。俳句には全然違うルールがあるんだってことが分かった瞬間に、ぼんやりして見えなかった抽象画に全部意味があるように見えてきた気がしました。それ自体をまずおもしろがった方が、その時がおもしろくなる。純粋に楽しみたいんです、俳句は。