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「虫の文学誌」書評 優しさと思慮 時代超えて共鳴

評者: 寺尾紗穂 / 朝⽇新聞掲載:2019年10月12日
虫の文学誌 著者:奥本大三郎 出版社:小学館 ジャンル:文学論

ISBN: 9784093887069
発売⽇: 2019/07/12
サイズ: 22cm/447p

虫の文学誌 [著]奥本大三郎

 幼い頃「虫めづる姫君」と呼ばれた人間としては、ページを繰るたびに驚きと喜びに包まれた。かつては、虫の字を三つ書く「蟲(むし)」は人間を含むすべての生物を表したのだという。毛のある虫、鱗のある虫……と分類していくと「裸の虫」としてミミズと人間は同じカテゴリーだったというから驚きである。「僕らはみんな生きている」ではないが、そこには人間至上主義とは正反対の、謙虚で牧歌的な世界観が広がっている。『詩経』においては、美人の眉を蛾の触角に、額を蝉に、白いうなじはカブトムシの幼虫に例えられた。現代人の感覚には受け入れがたいだろうが、昔の人が一匹一匹をよく観察し、そのユーモラスな形や美しい色に感嘆し、心惹かれていたからこそ生まれた表現であろう。
 古今東西の文学の中から、虫への言及をくまなくたどる本書は、虫を通じて人間を知る本にもなっている。ラフカディオ・ハーンを引きながら立てられる問いは、西洋の詩になぜ昆虫への言及が少ないかということだ。キリスト教は布教に際して、辺境の地の異端的とも言える昆虫信仰などを警戒し、人間中心主義を強調した。一方、中国では科挙社会の弊害として、古典に書かれたことを絶対視するあまり、実際の観察によって知識を更新することが遅れたとされる。
 しかし本書はそうした分析に終始せず、重要な例外を紹介してくれる。心打たれたのは英国のウィリアム・ブレイクの「蠅」の詩だ。蠅を払う自らの手を「思想のない手」と書き、「私もおまえのような蠅ではないのか。それともおまえは私のような人間ではないのか」と書いた。虫たちをあれこれと分類し、優劣をつける人間もまた、ただの命である。平安の「虫めづる姫君」が持っていた優しさと思慮が、国も時代も超えて共鳴しうること。知るべきは、大雑把な概論ではなく、一行の美しきフレーズであると感じさせてくれた一冊だ。
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おくもと・だいさぶろう 1944年生まれ。仏文学者、作家。日本アンリ・ファーブル会理事長。『虫の宇宙誌』など。