最初に好きになった二人組は
――いちばん古い読書の記憶を教えてください。
保育所で読んだ絵本のなかで好きなのは、ものすごく有名ですけれど、『ぐりとぐら』でした。ぐりとぐらがいちばん最初に好きになった二人組で、後々にコンビをやっていくことに関係しているんじゃないかと思っています。一人より二人のほうが楽しそうに見えたり、大きな卵でかすてらを作った後、その卵の殻にタイヤをつけて一緒に乗っているところが結構好きで。あそこに至るまでを体感したくて、何度も読み返していた記憶がありますね。
『いやいやえん』も好きでした。保育園が舞台のいくつかのお話が載っていますが、こぐまが転入してくる話とか、みんなで積み木で船を作って乗っているうちに本当に海に出ているような感覚になる話がすごく好きで。こないだ岸政彦さんとお会いしたんですけれど、岸さんの『図書室』という小説を読んだ時に「すごくこの感覚分かるな」と思ったのは、『いやいやえん』の保育園のみんなが船に乗ってわいわいしているあの感覚と共通しているからやと思って。人間が持っている普遍的な感覚なのかなと思いました。
あとは『おしいれのぼうけん』。保育園で悪いことをした子が押し入れに閉じ込められる話ですが、あの暗闇がすごく重要なんじゃないかと思っていて。閉じ込められた恐怖感と、あの真っ暗な中にいる状態で、先生におどされたりして......むちゃくちゃな先生なんですけれど、この世のものではない何か怖いものがそこにいるかのように浮かんでくるっていうのが実は重要なんだなと。
――重要といいますのは。
それが物語と考えるとか作るとかいうことに繋がっていくのかなと思ったんです。それでいうと『いやいやえん』も近いものがありますね。そういう話が子どもの頃は好きでしたね。あとはきつねの、手袋の話。
――『てぶくろをかいに』でしょうか。
それかもしれません。自分では憶えていなかったんですけれど、奈良で講演会みたいなものをした時に、いちばん前に座っていた60~70代の方が「すみません」と手を挙げるので「どうされました?」と訊いたら、「私は大阪の寝屋川市の、又吉くんが通っていた保育所で保母をやっていました。その時から直樹くんは印象的で、読んでいた本を憶えています」と言われたのでマイクを渡したら演説が始まって。「まず『ぐりとぐら』が大好きで『いやいやえん』も好きで...」というなかで、その絵本だけ憶えていなかったんですけれど、「読み聞かせると他の子はうんうん聞いているけれど、直樹くんは必ず物語が終わった後に質問をしてきました。そのお話も終わった後に私のところに来て"もしハサミで手袋切ったらどうなんの"とか"もしこうなったらどうなってたの"と質問をしてきました」と言われて、僕よりも拍手をもらっていました(笑)。僕もそれは嬉しかったんですけれど。
――そんな再会があったのですね。さて、小学生になってからの読書はいかがでしたか。
僕はほとんど教科書でしか読んでいなくて。他の本を知らなかっただけなんですけれど、1年生の時は教科書に出てくるのがただの例文のような文章でしかなくて、それで1回面白くないなと思っちゃったんですね。それで物語から離れてしまいました。2年生くらいから、「こうなったらいい」とか「こうするのは悪い」といったことが書かれているものが出てきたんですが、それが合わなかった。なんでこんな分かり切ったものを書いてんねやろと思いました。
何年生の時だっかかな、教科書に「沢田さんのほくろ」というのが載っていて、それがすごく好きでした。沢田さんという女子がいて、おでこに大きなほくろがあってみんなに「大仏」とからかわれている。それを気にして前髪で隠したりしているんですけれど、最後に強く生きていこうと決めるんです。それでおでこを出すようにしていたんですけれど、また男子に「大仏」って言われるんですよ。沢田さんは大仏の真似をして「大仏でけっこうよ」みたいなことを言うんですが、その目からは涙が流れている。
――つらい...。
すごい話なんです。なんやこれと思って、それがめちゃくちゃ好きで、結構ハマったというか。それで図書室で本を読む時間でも、教科書を読んだりしていましたね。それまではその時間は本読まんで漫画の『はだしのゲン』ばっかり読んでいたんですけれど。
――作文や読書感想文は好きでしたか。
書くのは割と好きでしたけど、読書感想文はほとんど書いてないです。書き始めたのは5、6年生の時じゃないですかね。そんときはまだ本が好きだと自覚する前だったので、なんとなくラクしたいなというのがあったので、『火垂るの墓』はジブリ映画で観て内容を知っているので書けるなと思い、一応確認するために本屋さんに行って妹の節子が表紙の新潮文庫を「これやなー」と思って開いたら、めちゃくちゃ文章が難しい。ああいう文章の小説を読むのがはじめてだったんです。
闇市のくだりだったかな、売っているものをモノの単語を5~6個並べてから読点打ってあるんです。どう読むんやろと思いましたが、「あ、これはもしかして闇市のどこで何を売っているか分からんこととか、隣の店との境界線がないとか、そういう闇市の状況をやろうとしているのかな」と思った時に、なんか、いっこ扉が開いたというか。すごく三次元的に感じたんですよね。それまで読むというのは言葉で説明されたものを頭で再現するものだと思っていましたが、こんなふうに絵を描くみたいな文章の書き方もあるんやっていう。文章自体が絵になっている。それで面白いかもと思って、もう1回冒頭に戻って読み返したらなんとなく分かってきて、それを3回くらい繰り返してリズムと言葉に慣れたら、一応ちゃんと読めたな、という。
――投げ出さずに繰り返し読む姿勢が素晴らしい。粘り強い性格だったんですね。
親がクリスチャンだったので、保育所の頃から教会学校に通っていたんですよ。朝の10時くらいから子ども向けの時間があって、配られたプリントに「マタイ伝」の何章とかが書かれてあるんですが、いくつか文字が抜けていて、それを全部埋めていくと「よくできました」みたいなのがあって。みんなは真面目にやらないんですけれど、僕はゲーム的なものが好きだから、言葉も知らんのに「マタイ伝」のそのあたりを探して埋めていたんです。で、すごく褒められました。もしかしたら、それで難しい言葉に向かっていくというのが養われたかもしれないですね。
――今振り返ると、どういう子だったと思いますか。又吉さんのエッセイで少年時代のことを拝読すると、大人しいけれど、中心的な存在だったりして、いろんな面があったんだなあと。
保育所の時なんかは人見知りで大人しいけれど、内弁慶で仲のいい友達や家族の前では全然違っていました。どこに行っても相手や環境の雰囲気に合わせようとしてしまうところはありました。
小学校に入ってからもそんな元気でもないんですけれど、子どもって身体的に躁状態になる時ってあるじゃないですか。とにかく走りたいとか叫びたいみたいなのがあって、そういうパワーが抑えられない自分がいる一方、大人や知らない人とは関わりたくないっていう自分がいて、テンション的にはわりと矛盾していました。そこを言ったり来たりしているうちに、そういうタイプの人間はどうしとくのが普通なんやろうって考えるようになりました。それで1回、「こうなんかな」と、元気のいい自分を作っていたことがあって、作ってみたもののやっぱり違うなってとなって、そのへんから訳分からなかったです。
小学2年生までは元気よく立ち振る舞っていたんです。その頃、風邪が流行って学級閉鎖になりそうになって、僕はクラスの中の立ち位置を考えて「ここで僕が学校を休むとみんながっかりするやろうな」「今までの僕の元気そうやったのが嘘になってしまう」と使命感を持ち、前日体調崩してたんですけれど、朝復活したんで学校に行ったんです。みんなすっごい休んでて、僕だけ元気やから先生が「又吉くんだけは元気やなー」と言ってみんなが笑うという一幕がありました。その後で、先生が母親からの連絡帳に「前日嘔吐を繰り返したので体調崩した場合はすぐ帰らせてください」と書いてあるのを読んで、たぶんびびったんです。心配そうな顔で「無理してたんやな」って言われたんです。僕はその先生のことめっちゃ好きで今でも感謝してるんですけれど、先生のその言葉で「あ、俺嘘ついてる状態になってる」と思って。そのへんから「1回、元気な子というのはやめよう」となり、3年生くらいから元気をやめてだんだん今の感じになってきたんかなーと思います。
――大人しいけれど、気弱ではないですよね。みんなに注意されても、右利きなのにサッカーボールを左足で蹴ることをやめなかったりして。
びびりで気にしいではあるんですけれど、弱気ではないんですよね。むしろサッカーでいうとファイタータイプというか。まあ、サッカーはそういうスポーツですから弱気だったら難しいですけれど。
わりと一貫してないんですよね。親以外の大人と喋るのが苦手で、友達の親とかが来たら一言も声を返したくない意識があったのに、大人を笑わせたいという感情もありましたし。大人は、僕に対して雑な人のほうが話しやすかった。優しい人が怖かったです。
ヒーローではない人物に心を寄せる
――本以外で、文化的な影響を受けたものは。やはりお笑いでしょうか。
お笑いです。小学校の時に見ていた吉本新喜劇の、間寛平師匠と池乃めだか師匠のやりとりが好きでした。普通の劇の中でお店の人と借金取りの人といった対立関係にある二人が言い合っているうちに、めだか師匠が猫になっていって、寛平師匠が猿になっていって、猫と猿で対決するっていうくだりがあるんです。吉本新喜劇のことをベタなお笑いやって言う人もいるんですけれど、あれのどこがベタなのかって思います。人間が動物になって闘いだすんですから。お二人のすごいところが、そのくだりは毎週のようにあるんですけれど、進化していくんですよ。わーっと闘って、1回離れて、視線を逸らす間があったりする。それがすごく動物ぽくて、公園で見る鳥と猫の関係とおんなじで、すごいなと思っていました。それが劇の中に突然入ってくるということと、大人がやっているというバランスがすごく好きでした。
――自分でもお笑いをやりたいとは当時から思っていましたか。
小学校5年生の時には確実にやりたいなと思っていました。1回、大阪のNSCの入学願書みたいなものを友達と一緒に見ていた記憶がありますね。その時は夜中に、当時若手やったお兄さん方の番組を見ていました。ダウンタウンさんを見始めたのも5、6年生からで、みんなよりちょっと遅いんです。姉は前から見ていたんですが、僕はサッカーをやっていたからあまり見ていなくて。でも教室でダウンタウンさんの名前を聞くようになって「え、知らんの」って言われるので見て、みんなと同じように夢中になりました。
5年生くらいからネタも考えるようになって、6年生からはノートに書き始めてリングの小さいノートが2冊くらいたまって、中学生になってからはもうちょっと大きいノートに書くようになって、何冊かありました。
――漫画は読まれましたか。
読みました。『ドラゴンボール』でもピッコロのような、最初は敵だったのがちょっと仲間になってくるようなキャラクターが好きでしたね。『幽☆遊☆白書』の飛影とか。天真爛漫でみんなから愛される主人公には惹かれませんでした。『キャプテン翼』も、翼くんに憧れはあるんですけれど、友達の前で口が裂けても「翼くんが好き」とは言えない。翼君がひょいとジャンプで交わしてしまうスライディングしてきた後ろ姿の少年くらいやなと思ってました。でも、小学生の時はどんだけ努力しても全国大会に行けないから、その少年ですらなかったんですけれど。
『サッカー少年ムサシ』という全3巻の漫画は好きでしたね。それは主人公もヘンやったんです。『じゃりン子チエ』もめちゃくちゃ好きです。チエちゃんも好きですけれど、気の弱い同級生のヒラメちゃんも好きで。チエちゃんにケンカ打ってはやられてしまう二人組の男の子がいて、その一人のマサルくんの「今日のチエは強いわ」って台詞がすごく好きでした。今日だけじゃなくていつもやられてるやん、っていう。たまにチエちゃんがナイーブになっていて、マサルたちにちょっかい出されても「うち、もうええわ......」っていう時があるんですよ。そういう時に二人組が戸惑うんです(笑)。「チエの様子がおかしい」て。そういうのがすごく好きでしたね。
――ヒーロータイプに憧れるわけではなかったんですね。
屈折しているわけじゃないんですけれど、アニメや特撮を見ていても、どっちかというと敵の格好いい奴を好きになるんですね。仮面ライダーがすごく好きやったんですけれど、「仮面ライダーBLACK」とそのあとの「仮面ライダーBLACK RX」にシャドームーンという敵が登場するんです。友達同士がショッカーに誘拐にされ、片方は逃げるけれど片方が捕まって改造されて、仮面ライダーBLACKのライバル、シャドームーンになる。心まで改造されてしまっているんですけれど、たまに人間だった時の自分の心が出る。僕はこのシャドームーンに感情移入してしまうんです。中学生になって読んだ中島敦の『山月記』の、虎になってしまった李徴にすごく心惹かれたんですが、李徴とシャドームーンが少し重なります。
ピカピカのヒーローとか、女の子から人気があってすげえ格好いいヒーローというものを、自分みたいな人間が好きになってはいけないんじゃないかという意識がありました。ゴレンジャーでも、みんなレッドを取りたがるけれど、僕はレッドじゃないなと思って、みんなが取り終わって残ったものでいいと思っていました。
唯一、主人公では「ゲゲゲの鬼太郎」の鬼太郎は好きでした。妖怪やし、いったら悪いですけれど身なりも汚いから、僕が好きでもいいよな、と思える。僕もシャツがお姉ちゃんのおさがりで、朝礼で並んでいると僕のシャツだけ黄色かったし、その黄色いシャツに合わせて被っている帽子にも土をわざとつけて黒くしてダメージを与えていたんです。鬼太郎とか、言葉でぱきっと説明しにくい感情を抱えている登場人物に共感しやすかったですね。
読書に目覚める
――中学生時代に読書に目覚められたんですよね。芥川龍之介の短篇「トロッコ」を読んだことが大きかったとエッセイで拝読しましたが。
「トロッコ」と「ひよこの眼」と、どっちが先だったかな...。教科書に山田詠美さんの「ひよこの眼」が載っていたんです。転校生の大人しい男の子がどうにも気になっていて、ある時、お祭り飼ってきたひよこの眼に似ていると気づくけれど......という話でした。そういう、「こういうところがいいと思います」と簡単に説明できない話が好きでした。「この人がこういうことをしたからいいと思います」「悪いと思います」と説明しなくてすむ物語が好きなんです。
「トロッコ」を読んだ時は、あまりにも的確に自分の感情が描かれているなあと思ったんですよね。いまだに好きなんです。
――少年が、近所の工事現場のトロッコに興味津々で、ある時、作業員の男の人たちと一緒に押させてもらうんですよね。でも結構遠くまできたなと不安になり、一人で帰らなくてはならなくなってという。
子どもの頃、祖母の家とかに遊びに行くと、大人っぽく思われたくて、「ちょっと散歩行ってくるわ」って言ってたんです。散歩に行くというのが大人の証みたいに思っていたので。でも家から離れるのはめっちゃ不安やから、角ふたつ曲がったところでずっと立っていて、ある程度時間が経ったら歩いていたことにして帰って、散歩したフリをしていました。「トロッコ」を読んだ時、この少年のことを、そうやっていた自分と一緒に感じたんですよね。この話で好きなのが、いつもより帰るのがちょっと遅くなるところですよね。「お前そろそろ帰ったほうがいいぞ」と大人たちに言われ、それまで対等な立場のつもりやったのに急に「え、そんな自分まだ子どもなのに」と一人で帰るのは不安になって、でも言えないから平気なフリしてお兄さんたちと別れて家まで走っていく。いつもよりちょっと遅いけれど、でも、書かれてないけれど、15分、長くても30分くらいやと思うんですよ。夕暮れの、日が沈みかけの頃に帰っていますから。自分も小学生の頃にそういう体験があるから、本当はそこまで時間は経っていないのに走って帰らないとやばいという、その感覚も分かるんです。一人で孤独に山道をずっと走ってきた時間を過ごしてきているから、親のテンション的には「(軽い口調で)遅かったね」くらいなのに、少年は泣きだしてしまう。それが、「うわあ、すごいことが書いてある」と思いました。
後々になって読み返すと、大人になった人が日常を生きているなかで子どもの頃を思い出す構造になっているんですよね。はじめて読んだ時は、そんなのまったく意識していませんでした。 そこから芥川の他の話も読んでみたくなって、本を読むのにハマっていきました。俺は本が好きなんだってはじめて思ったのがこの頃です。
――芥川以外の作家も読み始めたわけですか。
国語の教科書を読んでいても好きな話と好きじゃない話があるので、それはどういうもんなんやろうと国語便覧を読んでいくと、そこに載ってる面白い顔したおじさんたちの話がだいたい好きなんやなと分かったんです。そんぐらいから、芥川龍之介、太宰治、夏目漱石とかを読んでいくようになりました。坪内逍遥の『小説神髄』はちょっと違うかなと思い、その次の尾崎紅葉の『金色夜叉』あたりから読みましたね。泉鏡花は何を最初に読んだかな...『外科室』かな。『高野聖』はその後やったかな。志賀直哉の『暗夜行路』や島崎藤村の『破戒』も読みました。遠藤周作は『沈黙』で持っていかれて、『深い河』は宗教に対する子どもの疑問に答えを与えてくれたと思いました。
便覧を参考にして読んでいって、だいたい読んで「わー面白かったな」と思うんですけれど、そのなかでも自分とすごく合うなという作家がいて、そこをさらに掘っていく、という感じでしたね。中学生の時点では芥川と太宰がすごく面白かった。
漱石の『こころ』は、教科書に先生と私が出てくるところだけ抜粋で載っていたので、全貌を知りたくて図書館で借りて全部読みました。漱石は『坊っちゃん』と『こころ』は楽しめましたが、『三四郎』や『それから』は18、9歳で読んだ時は難しいなと思いました。でもそこからいろんなものを読んで、20歳くらいの頃にもう一度読み返したら、めちゃくちゃ面白かった。漱石は『それから』は一番好きかもしれません。
そういえば中学の時やったかな、又吉栄喜さんが『豚の報い』で芥川賞を受賞されて、掃除の時間に掃除してたら国語の先生に「又吉くん、又吉って人が芥川賞受賞したね」って言われて、僕も報道で知っていたので「読んでみますー」と言って読みましたね。
――又吉さんというと太宰というイメージが強いですよね。最初は『人間失格』だったのですか。
その前に『走れメロス』は読んでいたかもしれません。ただ、後々「こういう読み方したら面白いんじゃないかな」というのはありましたが、最初に読んだ時はピンときませんでした。でも友達に薦められて『人間失格』を読んだら、大庭葉蔵の幼少期の描かれ方が、自分とすごく重なったというか。しかも、僕が人に話せない、そういうのはヘンやから人には話してはいけないと思っていた感覚が全部書かれていたんで、それに衝撃を受けました。なんでこんなこと書くねん、と思いながら、でも自分以外にこういう人いたんやって。これが日本を代表する有名な作家のむちゃくちゃ有名な小説ということにびっくりしましたね。「こういう感覚って自分だけのものじゃなくて、みんな持ってるんや」って。
大庭葉蔵の、虐待を匂わすような言葉との距離の取り方とかも、すごくまっとうな感覚の持ち主がこの物語を語っていると思えました。お父さんに「東京のお土産は何が欲しい?」と訊かれて、欲しいものがないから言えなくてお父さんの機嫌が悪くなってしまった後で、お父さんの手帳に「獅子舞」と書き込み、お父さんが浅草の仲見世で手帳を開いた時に、「これ葉蔵の字やろ」っていって嬉しそうに獅子舞を買ってくるという、その喜ばせ方も、お笑いとして納得のいくものやったんです。
――お笑いとして、なんですね。
僕は主人公がギャグを言って周りが笑ったという場面があっても、それが人間のちゃんとした生理に基づいていない笑いやったら冷めるんです。「笑わんやん、これ」って。『人間失格』は「なんで笑ったんやろう」みたいなことを考えさせないところにすごく信頼がおけるというか。あまりに有名ですけれど、葉蔵が逆上がりをわざと失敗して落ちた時、竹一に「ワザ、ワザ」と言われますよね。僕は葉蔵が落ちた時に「ほんまにがっかりさせんなよ」と思ったんですよ。「もっと面白い奴だと思っていたのに、こんなむちゃくちゃおもんないことやりだしてがっかりさせんなよ」って。そうしたら竹一がわざとやったと指摘する。逆上がりは、この「ワザ、ワザ」を引き出すためだったんですよね。「これおもんないよな」とか「これ人にバレるよな」っていうラインまで信頼できる。そこで僕はもう、太宰治のその感覚と契約を結んでしまったところがありますね。
魅力的な笑いのある小説は
――小説でも、本当に笑えるか笑えないかは又吉さんにとって大事な要素なんですね。
大事ですね。笑かそうとしてなくてもいいんです。そのまんまの状態が書かれていたら普通に笑えるはずなんです。普通の状態って笑えますから。でも意図的にテクニカルに笑いを取りにいこうとするとなかなか笑いづらい、というのはありますね。
――他に笑いの感覚があると思ったのはどの作家になりますか。
織田作之助は語りが面白いんですけれど、大阪のお笑いみたいなところじゃなくて。たとえば『夫婦善哉』の、夫婦がいろんなことをそれぞれに考えて話が進んで、最後に二人で並んでふたつずつの善哉を食べている場面は、あれは僕は自分の状態によって泣くこともできるし、笑うこともできる。わりと人間のそのまんまの姿やなって。僕も両親を見ていると、この二人はもともと他人なのになんで一緒におるんやろうと思う。でも二人揃って飯食っているのが普通という。言葉にせんでも二人が善哉食っているという描写だけで、なんか分かってしまう。これは意味があることなんやって。それが、僕は泣けるし笑えるんです。そういうのをやってくれたら、僕は楽しめるんです。
谷崎潤一郎にも面白いところがいっぱいありますね。『痴人の愛』のラストシーンはあまりにも有名ですけれど、他にも、ナオミが同世代の男友達とよう遊んでいて、主人公が思ってたよりも手に負えんということを感じ始めた時に、若者に「あいつ俺たちの間でなんて呼ばれているか知ってる?」みたいなことを言われて、ぐっとなる。谷崎は具体的には書かないけれど、たぶん卑猥な言葉が想像できる、すごく嫌なシーンなんですよ。そこは主人公の顔を想像すると、すごく可哀そうやなとも思うけれど、面白いですね。
カフカの『変身』もめっちゃウケましたね。ひとつめのポイントは、グレゴール・ザムザがある朝起きたら虫になっていて、それを自覚した後に「わ、会社どうしよう」ってなって、そこから会社の愚痴みたいなのを考えているところ。そんなこというてる場合ちゃうやん。あれはむちゃくちゃ笑いやなと思います。そこから起こることも、家族の反応も含めて、ものすごいコメディですけれど、巻末の解説に、当時の社会の、非日常的なことを普通に受け入れてしまう部分が描かれているとあって、笑いながら読んだのにそうなんかと思いました。でもやっぱり笑う小説だと思うんです。
ドストエフスキーの『罪と罰』は語りが全部面白いですね。なんで面白いのかな、あれ。すっごく笑っちゃってますね。急にひどいことを言ったりするじゃないですか。書かれている内容とか、全体を読んでみて感じることもありますけれど、でも何より、あの語りが面白いですね。
――海外小説もいろいろと読まれていたのですね。
最初は、中学生くらいの時に友達とか友達のお母さんに薦められて読みました。でもその時は、たとえば主人公の女性に感情移入して読んでいて、性的な描写があると「え、なんで」と思ってしまっていたんですよ。好きな人ができて、二人が結ばれたとか、そういう営みが書かれていると、そこは語んなよ、そこは見たくなかったよ、と。男子校やったのも影響していると思うんですけれど。友達が「実はこないだ彼女とこうこうこうで」って具体的に語ってきたら、「嫌な奴やから、こいつとはもう喋らんとこ」って思うように、小説の主人公でいうと、「ああ、こいつの繊細な部分に共感しながら読み進めてきたのに、なんでそのこと語るのに一切抵抗がないんやろ、変な奴やな」って思ってしまっていたんですね。それがある種の悪趣味なサービスに思えていましたが、でも後々、海外小説も読むようになりましたね。『罪と罰』の後に読んだゲーテの『若きウェルテルの悩み』も好きでした。
さらに読書にハマるきっかけ
――話が前後するかもしれませんが、高校卒業後、上京されてからは読書生活も変わりましたか。
量が増えました。上京してからの5~6年がいちばん本を読んだかもしれません。金がなかったので、古本屋の前のワゴンセールの文庫3冊100円といったものを買っていました。芥川とか太宰とか谷崎とか、全部読みたいんですけれど近所のワゴンだけでは揃わないので、いろんな古本屋を回っているうちに、だいたいどの本屋に何があってどういう扱いを受けていて、いくらで売っていてというのを憶え、作家の位置づけとか、今何が人気があるのかというのを学んでいきました。
その時期に読書にハマったきっかけがもうひとつあって。18歳くらいの時に、自分でもちょっと書いてみようかなと思い、上京してすぐ原稿用紙を買ってきて頭ん中に浮かんだ物語を書いてみたんですよね。『三国志』くらい長くなるぞと思って書いたら、10枚で終わってもうて。「あれ、終わった」となって考えてみたら、あらすじ書きというか、プロットみたいなものにしかなってなくて。小説書くって難しいんや、と思いました。もちろんその時は小説家になりたいと思ってないです。思いついたから俳句作ってみようとか、短歌作ってみようとか、スケボーやってみよ、という軽いノリやったんですけれど書けなかった。
それで、冒頭ってどうやって書いてあるっけと、自分の本棚にある太宰とか芥川とかの本を開いたら、今まで普通に読んでいたのに、冒頭の一行が光って見えたんですよね。「なんでいきなりここから入れてん」とか「なんでこの1行目を選べたんやろう」となって、そこから読書がすごく面白くなりました。それまでも本を読むことには慣れてきていたし、システム理解せんと自然に読めるもんやから読んでいたけれど、たとえば地の文から会話文になってそこからどう地の文に戻るのかなんかも、「なるほどこうなってんねや」というのが分かって、そこからすごく面白くなったんです。
それまでは読んでいってだんだん主人公のことが分かって感情移入して、物語の展開の部分で「あ、やっと面白くなってきた」と感じたこともあったんですけれど、それ以降は本を開く前からもう始まっているみたいな感覚で、開いて1行目からずっと面白い、というふうになりました。それは実際に自分が書いてみようとしたからだと思います。
――読むものは純文学が多かったのですか。
どれがエンタメなのかあまり分かっていないんです。江戸川乱歩も好きで読んでいましたし...。便覧に出ていた作家の代表作を一通り読んで、そのなかから芥川、太宰、谷崎、漱石をもうちょっと読んでいこうとなり、その後で「今ってどうなってんのかな」と思って、現存している作家を読んでいきました。高校の時に浅田次郎さんを読みましたし、村上龍さん、町田康さん、村上春樹さん、古井由吉さん、大江健三郎さん、ねじめ正一さんを読み、そこから「ミステリやサスペンスってあんま知らんかったな」と思って、島田荘司さん、京極夏彦さん、宮部みゆきさんを読み。「ハードボイルドってなんやろう」と思って北方健三さんばかり読んでいた時期もありますし。東野圭吾さんをいっぱい読んでいた時期も、伊坂幸太郎さんや道尾秀介さんを読んでいた時期もありますね。角田光代さんも、西加奈子さんも好きやし。好きな作家が増えて、その人たちの最新作を全部読もうとしたら膨大な量になってしまうので、そうしているうちに純文が増えていったのかな......。
――今、ハードボイルドを読まれるというのが一番意外でした(笑)。
馳星周さんの『不夜城』とかも読みましたよ。北方さんは『檻』とか。「Hot Dog PRESS」に連載していた「試みの地平線」がめっちゃ好きでした。読者からの質問に「馬鹿野郎」とか答えていて、すげえなあっていう。
岩を叩き続けている作家
――気になる作家ができると、その人の作品を集中的に読むタイプですか。
そうですね。で、わりとデビュー作から順番に読みますね。古井さんは最初に読んだのが『杳子・妻隠』でしたが、その後はわりと順番に読んでいっているんじゃないかと思います。京極夏彦さんはデビュー作の『姑獲鳥の夏』から読み始めましたし、中村文則さんもデビュー作の『銃』からわりと順番に読んでいきましたし。
――又吉さんといえば、中村文則さんを愛読している印象も強いです。
25歳か26歳の頃、僕、古井由吉さんを追いかけていたので、古井さんの選評を読んだ時に中村さんの名前も見かけていたんです。それとは別に、編集者に「僕は近代文学が好きで、ああいうのは古いとは思わなくて、むしろそれ以降に書かれたニューウェーブ的なものを古く感じてしまうんです。現代であの近代文学の続きをやっているようなタイプの作家さんっていないんですか」って質問したら「いるよ」みたいな感じで薦めてもらったのが中村さんの『銃』でした。それで読んで「うわーっ」となって。すごく普遍的なものを感じたんです。僕もコントを作っているので、テクニカルなことはわりとコントの手法でもあったり演劇的な手法であるので「うわーっ」とはならない。それよりも僕にとって刺激的なことって、ひとつのことを考え続けているとか、そういうものなんですね。中村さんの『銃』を読んだ時にこういう現代の作家さんがいるんやって驚きました。古井さんとか中上健次さんも好きやし、町田康さんも僕の好きな近代文学の流れは感じていたんですけれど、もっと若い人でいてないかなって思っていたので。
――『銃』はある日銃を拾った一人の青年の意識の流れを精密に追った作品ですものね。
文体が面白いとか魅力的って、歌がうまいようなもんやと思うんですよね。この声やったらなんでもいいって思えるのと一緒で、物語がどう展開しようが、展開が一切なかろうが、永遠に読んでいられる、みたいな。そういう語りが好きですよね。
中村さんも『銃』から順番に読んでいって、なるほど面白いなと思ったのは、太宰とかの近代文学の作家にもそういうところがありますけれど、ひとつのテーマとか核の部分に向かって、語り直していくようなところがあるんですよね。もちろん同じことを繰り返すのではなく、スライドしながら語り直していくことで、より立体的に何かを浮かび上がらせようとしていて、そこがすごく好きなんです。
僕、わりと同じことをずっと言っている人が好きなんです。何かを掘っていくのってすごく体力が要るんですよ。お笑いでも、コントとか二人の関係性とかでウケるものができると、そこを深化させていくのってめちゃめちゃ体力が要る。その一方で、やり方を変えて新しい見せ方をするというのは、褒められやすいんですけれど、あんまり体力要らんから、ちょっと後ろめたさがあるんです。でもやり方を変えずに深めていって、より強いネタができた時には、なんともいえない気持ちよさがある。中村さんって、読んでいてそれをすごく感じるんですね。近代文学というものをみんなが何十年も掘り続けてきて、もう底までいったよね、こっからしたはもう岩やから掘れませんってなった後、みんなは違うアプローチで横に穴を広げていった。そうして書かれるものもすごく面白いんですけれど、同世代の中で中村さんだけは、語り直しながらアプローチの仕方を変化させていかれていますけれど、ずっとその底の岩を殴っている音を響かせているというか。それが劇的な新しい何かをもたらしてくれるというより、そうしていることがすごく好きなんです。まだそこ叩いてんねや、みたいな、その覚悟がすごく信用できる。この作家、好きやなあと感じましたね。
最近の読書&新作『人間』
――ここ数年で印象的だった本といいますと。
川上弘美さんの『真鶴』は何回も読み返して、それもやっぱり語りが好きで。読んでいるだけで気持ちいいという、いちばん好きなタイプの小説です。それでいうと今村夏子さんの『こちらあみ子』も好きでしたね。
――いろんなメディアでたくさん本を紹介されているなかで、ケン・リュウの『紙の動物園』や呉明益の『歩道橋の魔術師』など、海外の本も挙げられていますよね。そういう海外小説はどういうきっかけで読まれたのですか。
いただくことが多いんです。いただいて読んで面白かったら、いただきっぱなしは嫌やから、自分で買います。人にプレゼントもしますね。だから、だいたいどの本も自分の家に2冊ぐらいあります。
海外の作家を読むと、全然知らん土地の話ではあるけれど、自分もここのあたりの感覚はあるな、というのを見つけられる。そういうものを普遍的なものとして感じやすいですね。日本の小説を読むとかなり自分で補足してしまうんで、書かれていないことまで汲み取ってしまう。そういう読み方ももちろん面白いんですけれど、海外のものはまた違う読み方ができますね。ケン・リュウさんのようなSFを僕が紹介すると不思議がられるんですけれど、僕はもともと筒井康隆さんや星新一さんも好きなので。
――本を読む時、線を引いたりメモを取ったりしますか。
1回目は何もしないですね。普通に読んで、2回目で線を引きます。3色くらい使いますよ。赤ペンも青ペンも蛍光ペンも使います。最初は色分けを心掛けるんですが、途中で忘れてしまいます。文章としてすごいなと思った部分はこの色、この小説の中で重要な部分やなというのはこの色、お笑い的なところはこの色とか、分けようとするんですけれど......。後で絶対読み返さなあかんところは※印をつけたりもします。
――気に入った本はどれくらい読み返すのですか。
僕、だいたい2回か3回は普通に読みます。いちばん読み返したのは『人間失格』と芥川の『戯作三昧』とかかな。ああいうのは100回くらい読んでるでしょうね。
――さて、新作『人間』は若い頃に辛い思いをした主人公が、38歳になり、過去を振り返りつつ、現在を見つめる物語です。新聞連載でしたが、依頼があった時にどんなことをイメージされたのですか。
『火花』で青春時代を書き、『劇場』でも20代の頃を書きましたが、小説って青春時代を書いたものが多いですよね。『火花』で「僕たちはまだ途中だ」みたいな言葉を書いたんですが、青春時代が終わってその続きを生きているってことは、自分自身が物語から退場している状態なのか? と考えて。実は人生エピローグのほうが長いなとなった時に、当たり前なんですけれど、はっとしたんです。それを書いてみたいと思いました。その後の人たちがどういうことを考えて生きているんだろうと考えたのが最初です。だから若い頃に重大な出来事があった主人公の、その続きを書こうと思いました。登場人物たちを今の自分に追いつかせたいこともあって、この年齢設定になりました。
――今回もまた主人公をはじめ、物書きや芸人たち、何かを表現しようとする人たちが登場します。その設定にはどういう思いがあったのでしょうか。
『火花』と『劇場』を踏まえた上でその後というのを発想したので、表現者であることはずらさんほうが何か発見できそうやなって思いました。だから設定上絶対入れておきたいと思ったところではありますね。
――『人間』というのは、大きなタイトルですね。「僕たちは人間をやるのが下手なのではないか」をはじめ、人間という言葉も作中に何度か出てきます。
僕自身もあんまり人間をやるのが上手くないんです。それに、エピローグの時間の中で、人間はどうするのかなというのを考えたかったので。自分から見た、人間の一端を書けたらと思いました。
――『火花』『劇場』『人間』で三部作ともいえますね。では、今後はどのようなものを書かれるのでしょうか。
今までの3冊は、なんとなく、こういうテーマで書かなあかんという意識で書いてきたんです。僕の過ごしてきた環境から搾り取れるものを全部出そうという気がありました。ここからは、この3作を踏まえた上で、全然違うものを書くと思います。今、ふたつくらい書きたいことがあるんです。書くのはこれからなんですけれど。