県税事務所舞台に「あるある」
本作の舞台は、税金を滞納する“お客様”に支払いを促すことを仕事とする県税事務所の納税部門。同期の休職により、急遽異動させられてきた有能な若手職員・中沢環、仕事に馴染めず病休に入り、総務担当に異動した環の前任職員・染川裕未、最古参のパート職員で、噂話に花を咲かせて人間関係を適当にやり過ごす田邊さん、裕未の上司でお局様と名高い堀主任の4人が1章ごとに登場し、それぞれの視点で物語が進んでいく。彼女たちが心の中でつぶやく、声なき声がどこまでもリアルで、「あるある」といった共感の連続。そのどれもが、読み手の心にぐさぐさと突き刺さっていくため、次第に読み手も息苦しくなっていくが、それでも先を進めずにはいられない小説だ。
納税部門の公務員といえば、税金未納者に対して支払いの催促や交渉を行い、時には不条理なクレームをつけられることもあるストレスフルな職場。ここを舞台にしたのには理由があった。
「公務員という仕事はどれだけ頑張ってもあまり感謝されないし、『これだから公務員は』と乱暴にひとくくりにされてしまうことがあります。時には、小説や映画などでは公権力という敵のような描かれ方もされます。でも、弱者だと声高に言える人と、強者とされる人の間(はざま)にいるのが公務員なんじゃないかと思ったんです。被害者と加害者の間にいる人の声がすくい上げられにくいのではないかという感覚が以前からあり、公務員をテーマにすることで、もっと掘り下げてみようと思いました」
加害者になることへの無自覚
伊藤さんはかねてから、被害者と加害者の立場や関係性について考え続けていたという。たとえば「自分は被害者だ」「被害者がかわいそう」という声に比べて、「自分が加害者で悪いことをした」という声は非常に少ないのはなぜか。誰もが何かのきっかけで被害者や加害者になりうるはずなのに、人々はどうしてそのことに無自覚なのか。SNSを中心にエスカレートする一方の加害者への糾弾や、どこまでも続く被害者と加害者の連鎖――。本作を執筆するにあたっても、誰もが被害者や加害者になる可能性を秘めており、時にはそれが逆転することすらあるという視点を常に意識していたと話す。
そこで伊藤さんは、この物語にアルバイトの須藤深雪という女性を登場させる。職場ではっきりとアナウンスされていないが、おそらくは以前病気を患っていたらしく、仕事を通して社会復帰を促すために雇用された女性だ。しかし、仕事の覚えや要領が悪い上に、常におどおどした態度を取るため、周囲の人をイラっとさせる存在でもある。職場であからさまないじめに遭っているわけではないが、さまざまなストレスを抱えている他の登場人物から厳しい態度を取られたり、きつい言葉をかけられたりすることもあり、スケープゴートのような役割を果たしている。
「須藤さんは弱くて被害者的な立場で、救われなきゃいけないはずの存在。でも、職場に仕事ができない彼女がいることによって、しわ寄せの負荷がかかっている人がいるのも事実。ただ、彼女はすごくかわいそうな人で、厳しい態度で接する人が悪いというアプローチには限界があります。同情するだけではなく、なぜ人は加害者になってしまうのかというところから考えないと、抜本的な解決にはならないんじゃないかと思うんです」
気が弱くて自分に自信がない須藤さんは相手に何も言い返すこともないまま体調を崩してしまう。伊藤さんは須藤さんという存在を客観的に描きながら、弱い人を一方的に痛めつけているだけではないかという葛藤があったという。
「今までは、この小説が誰かの救いになったり、楽にしたりすることもできるはずだという思いで書いていたのですが、この作品は誰かを傷つけてしまうかもしれないけど、それでも書かなきゃだめだという意識が強くありました。それは私にとって挑戦であり、かなり勇気のいることでした。でも、弱くて救いがなく、声を発することができない人をありのまま発信するのも文学にとって大切なことの一つではないかと思っています」
物語の中で苦しんでいるのは、わかりやすい弱者である須藤さんだけではない。有能であるがゆえに、葛藤を抱えていても共感されづらい中沢環や、職場で要領よく振る舞っている一方で、娘ときちんと向き合えていない田邊さんなど、それぞれの登場人物が生きづらさを感じている。伊藤さんは小説の中で、たとえ同じ職場であっても、どんな選択をするかによってその後が大きく異なってしまい、何かを選択したらしたで、「自己責任」と言われる苦しさも浮き彫りにしている。
「なんでもかんでも自己責任と片付けるのは何か違うなと。その人のせいにしておけば楽だからなんです。人に悪いことが起こった時に、自分に同じことが起きるかもしれないという恐怖から逃れるために、『あの人は夜道を歩いていたせいで犯罪被害に遭った』などと理由をつけて自己責任のせいにしてしまい、だから自分は大丈夫と考えることを“世界公正仮説”というのですが、人はそのことをどれだけ自覚しているのだろうかと思うんです」
女性の代弁者ヅラはしたくない
立場や年齢、性格も全く異なる登場人物たちは、最後までお互いがわかりあえることはない。悲しいことではあるのかもしれないが、それは現実の世界でも同じだろう。そこで本書のタイトル「きみはだれかのどうでもいい人」という言葉が際立ってくる。
「3章でパート職員の田邊さんが、みんなが誰かの大切な人だというメッセージはもっともだけど、世界中の全員に対してそれを思っていたら、本当に大切な人を守れないということを感じるくだりで、『これだ!』と思って。どうでもいい人ってひどい言葉ですが、書き手としてたとえ誰かを傷つける可能性があっても、あえて言うことが自分としてのけじめのような意味合いがありました」
タイトルにはどこか突き放された感があるが、読了後に改めてこの言葉の持つ意味が迫ってくる。みんなが誰かの大切な人であるものの、同時にどうでもいい人であると言われることで、「そんなに気負わなくてもいい」という安心感を得られたような気がするのだ。
「以前、作家の島本理生さんとの対談で、『自意識からの解放』とおっしゃっていただいたのですが、そう受け取ってくださる読者がいて、この小説は完成するのだろうと思いました」
デビューから本作まで振り返ると、主人公はいずれも女性であり、伊藤さん自身が現代を生きる女性の代弁者として見られがちだが、本人は明確に否定する。
「日本人だから、日本の小説を書いているのと同じ感覚で女性を書いてきただけで、特に女性ならではの苦しみを書く、といった意識はありません。私、信用しているとあるライターさんに、もしも私が『これが女性の生きづらさです』って勘違いして女性の代弁者ヅラをし始めたらすぐに止めてほしいってお願いしているんです(笑)。自分でも抱えている弱さや迷い、ずるさといった矛盾を抱えながら、それを見つめた上で小説を書いていきたいし、小説にはそれらを受け入れる懐の深さがあると信じているんです」