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翻訳文学、閉ざされた文化に架ける橋 作家・小野正嗣〈朝日新聞文芸時評19年11月〉

吉山安彦「夕すげの咲く頃」

 今年で3回目となるヨーロッパ文芸フェスティバルが、11月初旬、東京にあるEU加盟国の文化施設を中心に開催された。

 僕はドイツ、チェコ、ベルギー、イタリア、ポルトガルから来日した作家たちの参加するパネルディスカッションの司会を務めた。

 ベルリンの壁の崩壊から30年の節目の今年、議論の主題は「壁を壊すこと、橋を架けること」だった。

 実は、昨年も同様のパネルの司会をしたが、参加作家の作品の翻訳がほとんどなく、作家たちを紹介することのむずかしさを感じた。

 ところが今年は、関係者や出版社、翻訳者の尽力があって、フェスに合わせて、イタリアとポルトガルの現代作家の短篇(たんぺん)アンソロジーが刊行された。前者が『どこか、安心できる場所で』(国書刊行会)、後者が『ポルトガル短篇小説傑作選』(現代企画室)である。

 両アンソロジーには本邦初訳の作家が多く含まれ、各短篇の主題も手法も実に多様である。しかし、日本社会に生きる僕たちが感じる不安や疑問に呼応する部分が随所にあって、同時代の外国文学を読む醍醐味(だいごみ)を存分に味わえる。

 そもそも日本にも豊かな現代文学があるのに、なぜわざわざ外国文学を読まなければならないのか。

 その問いに答えてくれたのが、11月上旬にアンスティチュ・フランセ東京で対談する機会を得た、アルジェリアの作家カメル・ダーウドだ。

 カミュの有名な『異邦人』をアルジェリア側の視点から〈書き返した〉『もうひとつの『異邦人』――ムルソー再捜査』(鵜戸聡訳、水声社)が、世界的な反響を呼んだこの作家は、力強くこう言った。「翻訳がさかんな国こそ文化的に豊かな国なのです」

 ダーウドは書物文化のない僻地(へきち)で生まれ育った。手に入る数少ない本をくり返し読む。読書とは、カメル少年にとって自分の生きる地理的・文化的な閉域と外の広大な世界とのあいだに架けられた〈橋〉だったにちがいない。

 「言語は世界に開かれた〈窓〉であり、外国語を学べば学ぶだけ、私たちの心にはより光が射(さ)し込む」とダーウドが語るとき、その言葉そのものに光が宿っているかのようだ。

 優れたジャーナリストでもある彼が翻訳や外国語学習の重要性を語るのは、人間の心はふとした機会にいともたやすく他者や世界とのあいだに〈壁〉を作り閉ざされてしまうことを熟知しているからだろう。

 事実、日本も含め世界各地で物理的にも心理的にも無数の〈壁〉が築かれている。この閉塞(へいそく)感から抜け出すための〈橋〉はどこに?

 10月にロンドンを訪れ、いくつかの出版社の編集者から話を聞く機会があった。とりわけ印象に残ったのが、フィッツカラルドというまだ創立5年の小さな出版社だ。

 目録を見て驚いた。圧倒的に翻訳文学が多い。まだ若い社主のジャック・テスタール氏に訊(き)くと、もちろん意識的なセレクションだという。「イギリスの読者はとても内向きだと思います。英語圏の読者は外国文学の豊かさに気づいていないんです」

 地理的にも人口的にも巨大で、申し分なく繁栄しているがゆえに、逆説的にも英語圏の読者は、その外側にある〈異質なもの〉に鈍感になる危険性にさらされているのだ。

 フィッツカラルドは、ノーベル文学賞を今年受賞したポーランドのオルガ・トカルチュクの作品を2017年に刊行したこともあって、文学的な選択眼の確かさを高く評価されたが、日本では同じ作品がその3年も前に翻訳されている。

 『逃亡派』(小椋彩訳、白水社)において、旅に旅を重ねる語り手は、英語話者の置かれた不自由さに驚く。彼らは英語しか知らず、「それが唯一のことば」であることに「みじんの疑念も抱かない」と。

 このような不幸な境遇にある英語話者を守るために、語り手によれば、あるユニークなプロジェクトが進行中だそうだ。それは、「もうだれにも必要とされていないちいさな言語のひとつの使用」を英語話者に認めるというものだ。「英語話者も、自分たちだけのものが持てるように」

 自言語・自文化中心の偏見や思い込みの〈壁〉を壊し、他者や他文化とのあいだに〈橋〉を架けるために、実はこの「ちいさな言語」ほど必要とされているものはない。

 そして、僕たちはその言語の名前を知っている。そう、〈翻訳文学〉。=朝日新聞2019年11月27日掲載