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「自分にとってベストな泳ぎの模索」からパラアスリートのキャリアをスタート パラ水泳・江島大佑さん(後編)

文:井上良太(シーアール)、写真:小島加奈子(シーアール)

>江島大佑さんが『ONE PIECE』について語る前編はコチラ

——競技生活の中で、苦労したことはどんなことですか?

 障がいを負ってから、いざ泳いでみても頭の中は、両手両足を回してスイスイ泳いでいた健常者の自分。でも実際には、半身麻痺で左側が思うように動かないためバランスを崩したり、異常に疲れたり。まっすぐ泳げず、スピードも遅く、イメージと現実とのギャップに苦労しました。そこは、先天的に障がいを持つ方とは全く異なる悩みです。

——その悩みとはどう向き合ったのでしょう?

 高校3年間ずっと悩みました。障がいを抱えた当初は、どうやって健常者の頃の泳ぎへと近づけるかを目標にしていました。しかし、あるとき、それはもう無理だとわかりました。しかしそれはネガティブな感覚ではなく、やるだけやり尽くしたうえで、自分が障がい者であること、左半身は昔の要には動かないということを受け入れようとしたということです。

 そこからは、どういう泳ぎ方が今の自分にとってベストなのかを考え、オリジナルの泳ぎ方を作り上げていくことになりました。一度リセットして、“パラアスリートとしての江島大佑“を一から積み上げていきました。

——国際大会では、積年のライバルであったアンドリュー・リンゼイ選手(イギリス)を筆頭に、日本と海外とのレベルの差を感じたということですが、そこにはどんな違いがあったのでしょう?

 2004年のアテネ大会当時から、アメリカやイギリス、オーストラリアは、パラアスリートを取り巻く環境や文化が日本とは全く違いました。例えばジャージ。海外の選手は、僕たちがよくテレビで目にする、健常者のオリンピック代表と全く同じものを着ていました。一方、日本ではオリンピック代表とパラリンピック代表では、違うジャージを着ていたのです。海外の多くの国では 「オリンピックとパラリンピックは同じスポーツ」と、捉える文化でしたが、当時の日本は違いました。パラリンピックは厚生労働省、オリンピックは文部科学省と管轄が違い、同じスポーツとしては捉えられていませんでした。

 練習環境にも違いがありました。東京・赤羽にある、国内のトップアスリートが集まるナショナルトレーニングセンターは、オリンピアン専用。パラリンピアンは練習場所の確保にすら苦労した時代でした。海外では考えられないことです。そうした環境面での違いは、選手の実力差に大きな影響を及ぼしていたと思います。

 今では日本でもパラリンピックへの認知が上がり、2014年にはオリンピック・パラリンピックともに文部科学省管轄に統一されました。現在ではパラリンピアンもナショナルトレーニングセンターを利用できますし、パラリンピアン専用のトレーニング施設もあり、隔たりは感じられません。国として選手を強化・後押しする環境が成熟して来たことで、さらに素晴らしい選手が多数輩出されるのではと期待しています。

——変化を感じたタイミングはありましたか?

 北京、ロンドン、リオ、東京と、大会ごとに、パラリンピックに注目してくれるメディアが増えたように感じています。実際に僕も、講演会に呼んでいただいたり、取材を受けたりと、パラスポーツ全体の認知度の高まりを実感しています。

——江島さんが大好きなマンガ『ONE PIECE』の中では「友情」がキーワードの一つとしてあげられると思いますが、そこからどんなことや人を思い浮かべますか?

 世界選手権にデビューしてから今までずっと選手生活を共に過ごしてきたライバルや後輩など、アスリート人生において“仲間”と思える選手は何人もいます。お互い苦楽はありましたが、高め合い励まし合いながらここまでやってきた大切な存在です。そういった存在は、スポーツをやってきた人なら誰もが持っているのではないでしょうか。

 加えて、欠かせないのは大学時代の友人たち。彼らは水泳とは全く関係なく、たまたまゼミで一緒になった、健常者でごく普通の大学生でした。出会った当時は、「障がいを抱えて水泳をやっていることを不思議に思われるのではないか」と思っていました。とっつきにくいというか理解しづらいというか。でも、彼らと付き合っていく中で、僕自身が自分を差別的に見て、勝手に塞ぎ込んで、バリアを作っているだけかもしれない、と思うようになりました。彼らは障がいの有無などちっとも気にしていなかった。同じ人間として付き合い続けてくれた。だからこそ大切な存在ですし、すごい奴らだとも思っています。

 そんな彼らとの、忘れられない思い出の一つ。僕がパラリンピックでメダルを獲ったときのことなんですが、水泳の仲間たちは誰もが「おめでとう」と喜んでくれました。一方、同級生たちからは「調子に乗るな」と言われてしまって(笑)。「おめでとう」を待っていたのでびっくりしましたね。でも今振り返ると、もしそこで褒められていたら、天狗になっていたかもしれないので、彼らは僕のために言ってくれたのかもしれません。真意は聞いていませんが(笑)。やはり、厳しいことも言い合えるのが友だちなのかなと、今でも鮮明に覚えています。

 

——『ONE PIECE』にも負けない、いいエピソードですね。江島選手は現在33歳で、2020年の東京パラリンピックを34歳で迎えることになります。大会の目標とその後の進退についてはどうお考えですか?

 選手キャリアは東京パラリンピックで終えるつもりです。その後のことは、正直まだ考えていません。今考えているのは、アスリート人生の集大成をどこまでのものにできるか。目標は、まず個人種目でメダルを獲ることです。そして、自国開催で日本人からの注目度が高い大会なので、より多くの日本人がパラアスリートを目指すきっかけになれる、憧れになるような姿をお見せしたいです。

 僕が水泳を続けようと決めたきっかけは、テレビでパラ水泳を見て「自分もあんなふうになれたら」と憧れた選手がいたから。原点に立ち戻り、自分もそんな存在になれれば最高ですよね。「水泳を続けることに意味があるのか」と深く悩んでいた高校時代の自分に、その姿を見せてやりたい、自分を肯定する勇気を与えてやりたい、とも思っています。

——ありがとうございました。ジャンプの3大原則でいえば、次は勝利ですね。東京パラリンピック、頑張ってください。

>江島大佑さんが『ONE PIECE』について語る前編はコチラ