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#43 「あの日」を思い、考える旅 宮城・南三陸町

職員ら43名が亡くなった南三陸町防災対策庁舎。2031年まで県が管理。保存か解体か意見が分かれる

 あの日からまもなく9年。私は宮城県南三陸町にいた。

 2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とするM9.0の大地震が発生。ここ南三陸町も、大津波によって壊滅的な被害を受けた。町の記録によれば、1万7666人が住んでいた町で、町外の人や間接死を含む620人が死亡、211人が行方不明になった。5362戸のうち3143戸が全壊し、養殖業や水産加工業が盛んだった町が、一変した。

 この町にはどんな人が住んでいて、この町にはどんな魅力があるのか。そして、この町で何が起きて、この町で何が語り継がれてきたのか。震災前と震災後、何が変わって、何が変わらないのか。私は知らなかった。報道などで見聞きしていても、それを肌で感じ、この目で見ることはなかった。

 だから、知りたい。少しでも。

南三陸町の「セブンイレブン宮城歌津店」が設置していたポスト。約2400キロ流され、2012年12月、沖縄県の西表島海岸で見つかった。いまは、南三陸町のハマーレ歌津に展示されている

 朝日新聞の三浦英之記者が書いた『南三陸日記』(集英社文庫)を読んだことが、この旅の直接のきっかけだった。震災直後の2011年5月10日から「南三陸駐在」として赴任した三浦記者。被災地に住み込んで感じた、日常の変化や人々の心の揺れなどを紡いでいたルポルタージュである。

まるで広島の原爆ドームのように、廃墟になった南三陸の町に建つ。何を書くべきか。答えは 「現実」が教えてくれる。 (41ページ)
「防災ってやつは難しいよ」と帰り道、光一さんは私に言った。「海をコンクリートで固めても、人は守れない。親や地域がどこまで真剣になって子に語り継げるか。結局は愛情の問題なんだよ」(211ページ)
帰りの車の中で、長女は私に言った。「いつまでウソをつけばいいんでしょう……」。また「三月一一日」が来る。現実を受け入れられない人が、この町にはまだたくさんいる。(231ページ)

 震災の6日前に結婚式を挙げ、震災当日、石巻市に婚姻届を出しに行った夫を津波で失った、奥田江利香さん。町の防災対策庁舎で、最期まで防災無線で町民に避難を呼びかけながら亡くなった町職員の遠藤美希さん。一人ひとり、一つひとつのエピソードが胸に残っていた。

ホテル観洋から見える景色。見えたのは、美しく、穏やかな海だった

 実際に南三陸町を訪れる。「瓦礫」は撤去されているが、防潮堤や震災復興祈念公園などの工事はまだまだ続いている。カーナビ上ではまだ存在していない、舗装されたばかりの道路を走るのは、トラックや工事関係車両ばかり。確かな「復興」の歩みを感じる一方で、その「真新しさ」が被害の大きさを改めて物語る。

 宿泊したホテル観洋で毎日開催されている、語り部ツアーなるものに参加した。これまでのべ35万人が参加したツアーだという。防災意識が高く、高台避難を実行できた旧戸倉小学校、屋上まで津波が押し寄せたが327名と犬2匹が助かった高野会館、職員ら43名が亡くなった南三陸町防災対策庁舎などをバスで巡りながら、ホテル観洋の従業員の鈴木昌敏さんが震災当時のことを語ってくれた。

一部開園した震災復興祈念公園の景色。これは、標高20メートルの築山の山頂にあるモニュメント

 鈴木さんの話を聞きながら、そして、当時の写真を見ながら町を巡り、想像する。あの日、何が起きたのか。懸命に生きた人々、悲しくも亡くなってしまった人々。かつてここにあった人々の生活とたくさんの思い出と記憶。思えば思うほど、胸が締めつけられる。

 「復興までにはまだ時間がかかるというのが正直なところです。震災の記憶を風化させてはいけない。みなさまの防災や減災の一助になればと思い、このツアーをやっています」。そう鈴木さんは語る。

 あの日からまもなく9年。忘れたくないことがたくさんある。