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登れぬハシゴ 澤田瞳子

 ご近所の方が庭のケヤキの大木を剪定(せんてい)なさることになった。最近の続く巨大台風の来襲に、お隣に迷惑をかけぬよう決意なさったのだ。

 二階建ての屋根をはるかに越え、大きな枝を茂らせたそのケヤキは、私が子どもの頃から目を引く巨木だった。それだけに枝を掃(はら)うと言っても、一日で済むはずがなかったらしい。ある夕方に通りかかれば、太い幹に長いハシゴが立てかけられ、伐採の道具が根方に置かれている。

 ――登りたい。

 瞬時にそう思った。
 あの木の上から周囲を見たら、どんなに爽快だろう。とはいえいいアラフォー女が、よそ様の庭木に勝手に登るわけにはいかない。いや仮に許可をいただいても、ご近所で噂(うわさ)になるのは必定だと自分に言い聞かせ、そのまま家に帰った。
 私が木に登って悪いとの法律は、もちろんない。それにもかかわらず常識によって登りたいとの欲求を封じた瞬間から、私は自らに「木に登らない」選択を押し付けてしまった。その後悔が後からじわじわこみ上げ、悔しくなった。あの木に登れば、これまでとは違う世界が開けていたかもしれないのに。

 先月末、中学生の頃から通い続けていたジュンク堂書店京都店が、三十余年の営業を終えて閉店した。思春期の私を支え、今の自分を形作った原点である書店だ。精神的な母校とも呼ぶべき場所が消えた事実が、私はいまなお信じられない。だがどれだけ嫌だと叫んでも、ジュンク堂のある京都はもはや手の届かない世界となってしまった。

 ご近所のケヤキはすでに剪定を終え、どこか照れくさげに裸の枝を揺らしている。春になればきっとまた、美しい葉を茂らせるのだろう。長いハシゴも消えた。

 もう一度、あの木に登るチャンスがあれば、その上からはもはや戻らない京都の光景が見えるのではなかろうか。そんなことを夢見ながら、私は今も心の隅でもはや登れぬハシゴを探している。=朝日新聞2020年3月4日掲載