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勝負飯 海堂尊

 作家になってから「勝負飯」なるものができました。

 それはクリームシチューです。

 四十を過ぎてから作家になった私は、「人生五十年」と呟(つぶや)きながら、たくさん物語を書きまくりました。インタビューでは、「いつでもどこでも書ける」と大言壮語しましたが、それは噓ではありません。でもしばらくすると、執筆には二つのフェーズがあるということに気がつきました。

 第一フェーズはゼロから物語の大本を作り上げること、第二フェーズは作った文章を手直しする段階です。そして第二フェーズはいつでもどこでもできますが、第一フェーズはできれば数日間、ひとり籠(こ)もって書くのがいい、ということに気がつきました。

 その時は執筆部屋である某所に籠もるのですが、最初に作るのがクリームシチューなのです。

 材料は簡単、ジャガイモ、にんじん、タマネギ、豚小間、夏ならキャベツ、冬なら白菜。スーパーで仕入れたこれらの食材を刻んで土鍋に入れ煮込み、市販のシチューのルーを入れて終わり。ざっくりした男の手料理ですが、執筆に取りかかる前にこのシチューを飲むのが儀式のようになっています。

 このシチューを三日は食べます。

 もちろん合間にレトルトカレーやカップ麺を挟んでバリエーションはつけますが、基本はシチューを黙々と食べ続けます。ところがカレーは煮込めば煮込むほど味が出ますが、ホワイトシチューは煮込むと野菜が焦げたりして茶色に変色し、味は落ちてきます。ところがうまくしたものでその頃には執筆が佳境になり、腹が膨らめば味はどうでもよいので問題ありません。そして五日目の朝、物語の土台作りが一段落した頃に、シチュー鍋は空っぽになる、という塩梅(あんばい)です。

 でも時には流れが変わることもあります。「必要ならルールは変えろ」です。

 ルーを入れる前は野菜スープ状態ですが、そこで味見をしたらびっくりするほど美味(おい)しかったことがありました。新タマネギのせいでした。みじん切りしたタマネギが透明に透き通り、スープが五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み渡るように感じました。

 結局この時はルーは入れず、塩味をつけた野菜スープになり、しかも二日で食べ終えてしまいました。

 新タマネギスープを食べた時に書いたものは、一風変わった作品になりました。その後、その新タマネギを探し続けていますが、あれから巡り合えていません。

 幻の新タマネギ、というわけです。=朝日新聞2020年4月4日掲載