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青い煮干し 中沢けい

 海の中にも春が来る。冬の風が収まり、水温も上がる。冬の冷たい水ですくすくと柔らかく育ったワカメやヒジキが市場に出てくるのが春。春と言えば東京では白魚が春の魚の代表格。築地場外を歩いたのはそんな春の産物が並ぶ三月末だった。ラジオが志村けんさんの訃報(ふほう)を告げていた。

 四月に入ると、緊急事態宣言も出て、築地場外へ買物に行くのも、気が引けた。ようやく築地場外に出かけたのは五月の連休明けから十日ほど過ぎた頃だ。焼きのりが欲しかったのだが、おめあての海苔(のり)屋さんは休業中。場外の商店街でも休業中のお店がぽつぽつとあった。

 それでも、すてきな青い背の煮干しが買えたのが嬉(うれ)しかった。関東で煮干しと言えば「鰯(いわし)」と決まっている。どこの産とも聞かなかったが、産地を言われない場合は九十九里産とだいたい決まっているようだから、きっと九十九里のものなのだろう。大人の小指ほどの大きさ。荷を開けたばかりで香りがよい煮干しだ。

 煮干しと言っても、東北などでは焼き鯵(あじ)を使うところもある。飛魚(とびうお)の煮干し「あご」は九州で好まれていたが、最近では全国的な人気も出てきたようで、東京駅に「あご」出汁(だし)を売る店が出来た。小鯛(こだい)の煮干しもある。小鯛の煮干しで鯛飯を炊いたり、お素麺(そうめん)の出汁をとったり、ちょっと贅沢(ぜいたく)な気分になる。韓国の麗水(ヨス)の水産市場で、小指ほどの大きさの太刀魚の煮干しを見つけた時は欲しかったのだが、その前に巨大な干蛸(ほしだこ)を買ってしまって所持金がなかった。太刀魚の煮干しが買えなかったのは返すがえすも残念でならない。この時は干蛸と蛍烏賊(ほたるいか)の煮干しを抱えて日本へ帰ってきた。

 いろいろあるとは知っていても、関東で煮干しと言えば背の青い鰯の煮干しと決まっている。夜、煮干しを三、四匹ほどお水と一緒に鍋に入れ、朝ごはんの前に三十分も煮だせばよい出汁がでる。そう手間のかかったものでもない。夜のうちに仕掛けるのを忘れても朝大急ぎで煮出すだけでもまあまあの出汁は取れる。好きな人は煮干しをそのまま食べるという人もいる。煮干しラーメンというものもあるけど、ラーメンは鶏ガラの出汁じゃなければ嫌いだ。間違って煮干しラーメンの店に入った時、煮干しはやっぱりお味噌(みそ)汁でしょうとラーメンの出汁に向かって内緒で文句を言ったりしている。煮干しの包みを抱え、春キャベツのおみおつけを作ろうと地下鉄にのった。この頃は味噌汁をおみおつけと呼ぶ人も少なくなった。=朝日新聞2020年6月6日掲載