「生まれた境遇で決まるなんて納得できない」
表題作の主人公、千春は喫茶店でアルバイトをしている。高校を中退したばかり。親は千春に無関心で、ただ一人の友だちは店に来た時、ミルク代200円を負けなかったことで疎遠になった。
〈自分のやることのすべてに意味なんてない〉
不遇も淡々と受け入れてきた千春だったが、ある日、常連客の女性が忘れていった一冊の文庫本を、なぜか一晩持ち帰ってみたくなった。
「生まれた境遇や育った環境によって、『自分は無力な存在だ』と思い込まされている人もいます。でも、持って生まれたリソース(資源)で人生が決まるなんて、納得できないやないですか」
誰でもその気になれば、触れられ、体験できるもの。そんな「『オープンソース』によって、人生が少しだけいい方向に動き出す話を書きたかった」と話す。
千春の身に起こるのも、特別ではない、ほんのささいなこと。本を返した時に、持ち主の女性と言葉を交わすようになる。それがきっかけで、読書などしたことがなかったのに、同じ英作家サキの短編集を買いに行き、こう思う。
〈おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたい〉
初めて抱いた小さな意志は、彼女の人生を徐々に、だが確実に変えていく。
「本の持ち主の女性が、特別何かしてくれたわけではないんです。人生を変える出会いがないからダメだなんて考えなくていい。千春は『選ばれた子』ではないけれど、小さなことからでも自分の人生を『選ぶ子』になれたらいいのでは」
巻末の収録作「隣のビル」は、トイレ休憩の長さにまで文句を付ける常務のパワハラに悩む会社員が主人公。2009年に芥川賞を受けた「ポトスライムの舟」など、働くことと生きづらさを見つめた作品の系譜に連なる一作だ。
常務に怒鳴られた翌日、窓の外をぼんやり眺めていると、隣のビルの屋上フェンスに手を伸ばせば届き、乗り移れそうなことに気が付く。気のふさぐ職場の日常から、文字通り一歩踏み出す瞬間の描写は鮮やかだ。
職場の窓から隣のビルを眺めていたのは、会社員時代の実体験という。「仕事でつらいことがあると、『飛び移りたい!』と。会社という社会に閉じ込められた気もしていて。職場の外にも世界がある、そう実感できることは大事ですね」
書き終えた後で、仕事に悩んで隣のビルを観察するモチーフが、過去の作品とそっくりなことに気付いたという。
「私いっつも、こんなん書いてんねんなあ、と。でも、『持ってる』側の人を書いても仕方ない。そういう人のことは想像できませんから」(上原佳久)=朝日新聞2020年7月15日掲載