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【昭和100年/戦後80年】 アジア 他者を知り自己を変える場に 山室信一

詩人で作家の森崎和江さん=1997年、福岡県宗像市

 1945年の敗戦によって帝国日本は崩壊し、東アジアは台湾割譲前の1895年と同じ国家配置に戻った。

 それまで帝国日本の統治空間だった台湾・朝鮮・南樺太・南洋諸島、そして満洲国や軍政地域などは、日本人にとって外国となり、約660万人が引き揚げを強いられた。それと入れ替わるように、日本に在住していた百数十万人が朝鮮・台湾・中国などの故地に帰ったと推計されている。

 1895年から50年間の歴史は、一瞬にして消え去りはしなかった。いや、敗戦に至った経緯とその戦後処理の場としてアジアを考えれば、「帝国130年」という時間層の上に戦後80年が推移してきた事実を重視すべきだと思う。

 こうした歴史的文脈を強く意識した中国文学者・竹内好が、『日本とアジア』において問いかけたのは、欧米の帝国主義に直面した日本が独立を追求しながら、なぜアジアで帝国を形成し、敗北に至ったのかという問題である。竹内にとって日本の敗北は、単に戦争の敗北ではない。欧米の帝国主義へ抵抗を貫いて独立を手にした、アジア諸国の近代化に対する敗北であった。

 だが、日本人はアジアの何に敗北したのかを探ろうともせず、漫然と敗北を受け入れて敗北感の自覚さえない。それだけでなく、「敗北を忘れることにたいする抵抗」がない点に戦後日本の致命的欠落がある、と竹内は告発した。抵抗がないのは「自己保持の欲求がない」ためであり、自己を保持するには他者としてのアジアとの差異を知って、自己変革の契機とすべきだった。

 竹内にとってアジアは、戦後日本が真に自己を確立するための鏡としてあったが、今読み直すと、さらに強い伝言が届く。「文明の否定を通しての文明の再建」であり、「この原理を把握したものがアジアである」とし、「逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返(まきかえ)し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す」ことを課題として訴えていたのだ。

女性たちの肉声

 竹内がアジアを「近代・帝国・普遍性」の絡み合いを解明する場として捉えたのに対し、「(私は)内地人が植民地で生んだ女の子である。その私が何に育ったのか、私は何になったのか。私は植民地で何であったか、また敗戦後の母国というところで私は何であったか」を生涯かけて問い続けたのが、詩人・作家の森崎和江である(『新版 慶州は母の呼び声』ちくま文庫・880円)。

 森崎は日本統治下の朝鮮を原郷と呼び、敗戦後の日本とアジアの係(かか)わり方を「植民二世」の視点から鋭く斬り込んでいった。そして、自らとは逆にアジア各地へ渡り、「おなごのしごと」についた女性たちの肉声を『からゆきさん』において蘇(よみがえ)らせた。性・階級・民族・国家・戦争の絡み合いが観念としてではなく、日々の生活事実としてあった女性のアジア体験が描かれる。

 森崎は、帝国形成の先兵として娘子軍(じょうしぐん)とも呼ばれた「からゆきさん」を人身売買の被害者とみるだけでなく、「民間外交」を自負し、ガンジーにマッサージをして不服従運動に共鳴するなど多様な個性をもつ存在として捉え直した。

 森崎は女性坑夫を扱った『まっくら』(岩波文庫・880円)も著したが、森崎などと雑誌「サークル村」を刊行し、炭坑生活の実態を記録し続けたのが作家・上野英信だった。

 満洲国の建国大学に学んで満洲で兵役に就き、広島駐留時に被爆した上野にとって、炭坑は朝鮮人や中国人、沖縄出身者や引き揚げ者ら多様な文化背景をもった人々が差別に抗(あらが)いながら共存せざるをえない「日本の内なるアジア」ともいうべき空間であった。

 上野が炭坑になぜ自らの一生を賭けたのかは『上野英信集』所収の「地下からの復権」「わが廃鉱地図」などに凝縮して記されている。しかし、「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭も「エネルギー革命」という国策によって無用のものとされ、廃鉱が相次いだ。上野はその国策転換によって行き場を失った人々を追い続け、『追われゆく坑夫たち』(岩波新書・1166円)や『出ニッポン記』(潮出版社・絶版)などで棄民政策を告発したが、それによって炭坑百年の終焉(しゅうえん)の実相が、戦後80年の時間層に重ね書きされた。

 上野の被爆者としての憤怒は「私の原爆症」に噴き出ているが、建国大学や満洲国については頑(かたくな)なまでに触れることを拒絶して逝った。

記憶継承を模索

 同様に、満洲国での体験について書くことを避けていたのが、女性の視点から昭和史を書き換えてきたノンフィクション作家・澤地久枝である。

 澤地にとって棄民とされた満洲での体験は、消し去りたい人間の業(ごう)を見聞し続けた日々だった。しかし、個人の具体的な体験を語り伝えなければ、非業は繰り返される。どうすれば記憶の継承は可能となるのか。その自問自答の試みが『14歳〈フォーティーン〉』であり、「五族協和」を掲げた国家における少女の目に映った民族差別や階級差別の日常、そして国家崩壊後のソ連兵による「女狩り」や収容所生活などが回憶される。だが、「おわりに」では「遠い日の戦争が、つぎの世代の不幸とむすびついていることをいま、わたしは気づいた」として更なる省察を覚悟する。

 そうした模索を続ける澤地と、戦乱と干ばつで荒廃したアフガニスタンで医療と灌漑(かんがい)事業に尽力しながら凶弾に斃(たお)れた中村哲との対談『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(岩波現代文庫・1188円)は、ユーモアを交えた淡々とした語り口の中に中村が到達した境地が滲(にじ)み出て、潤いを与えてくれる。

 中村の新聞寄稿文を集めた『希望の一滴』は、江戸時代の「石張り式斜め堰(ぜき)」を採用した用水路が「まるで賽(さい)の河原のように、造っては崩れ、崩れては改良した」苦闘の日々の記録を、豊富な写真とともに伝える良書である。中村らのペシャワール会は「戦よりも食糧自給」と訴え、「人と人、人と自然の和解」を呼びかけた。それは「見捨てられた小世界で心温まる絆を見いだす意味を問い、近代化のさらに彼方(かなた)を見つめる」文明再生への挑戦であり、竹内好が渇望した文化と価値のアジアからの巻き返しの試みと重なる。

 民族や宗教や性差、そして経済的格差によって分断と対立が日々に激越化していく世界。その中でアジアという空間が衝突の場ではなく、人類にとっていかなる可能性の母胎となりうるのか。その達成への旅は、未(いま)だ途上にある。=朝日新聞2025年8月9日掲載