ザザー、ザザー。
そこは海が楽しそうに踊りながら、暖かい風がひたすら窓からお邪魔する海辺のホテル。
窓辺に今にも壊れそうなミシミシヴィンテージの木の椅子を持ってきて、海を眺めるひとりの女性がいる。
夜の海は気持ちがいい。
昼間のベタベタした潮風を丸々忘れて、保湿抜群の夜がやってくる。
「ほんっとに、くつろげる。海っていいわね〜。毎日見たって飽きない」
コソリと誰にも聞こえやしない声で発言をするのは、この海辺のホテルの主である、ルッコ。
ルッコは都会の誰もが追いかけたいキャリアウーマンだったが、ある死ぬほどの恋から、大失恋を機に、2年前都会に背を向けることを決意した。
ビルごと追っかけてくるんじゃないかと思うほど惜しまれた。
だがルッコはいま、この5km先まで明かりが見えない虫と波と風の音しか感じさせない海のホテルをとてもとても気に入っていた。
「あーぁ! 今日もゲストは0か。まぁもう私の家みたいなもんね。小さいことは気にしないっと」
ルッコの口癖のように広がる「ゲスト0」。
そりゃそうだ。
ここはへんぴな場所にある上、周りには無が似合うほどなにもない。
車を53分飛ばしてやっと小さなガソリンスタンドがあるくらいの地域なのだから。
もはや、ここにホテルがあるということを知っているのはルッコだけなのではないだろうか。
ホテルの名は「エリンギキャンパス」。
流木で作られた外観に、客室は男1人分くらいの絵が入るくらいおっっきな窓が自慢だった。
そしてあと一つ、ルッコだけが知っているこの場所のとっておきの自慢もあった。
ルッコにとってはこれ以上にない気に入りさを得ていた。
ただひとつ、ゲストが0ということ以外は。
プルン、プルルルル、プルルル。
静かな夜に似合わない機械的な音が鳴り響いた。
「こんな時間に誰かしら。よいしょっと」
壊れそうな椅子を回転させて腰を上げた。
「はい、もしもし」
「あ、ルッコ? 私よ、ママよ」
「あ、ママ? どうしたのこんな時間に」
「あんたホテルはどうなの? ちゃんと食べてる? お客さんは増えたの?」
母のトリコはいつもと変わらない質問をし始めた。
「ママ、そんな電話いちいちこんな時間にやめてよ。私なら元気よ」
「今日は違うのよ。レモーネのことで」
レモーネとはルッコの妹だ。
「え? レモーネどうしたの? なんかあった?」
「レモーネのね、あの結婚したザッキーのことなんだけど」
「あぁ旦那さんね。なに? ザッキーがまさか浮気でもしたの? 許さないわよー?」
「違うのよ。ザッキーがここ数週間、なんだか変な地図だか絵だか不気味なほど見たことない地形を書きづづけてるみたいでね。レモーネがなにか、って聞いても見るな、あっちいけ!って部屋から追い出されちゃうってのよ。なんだと思う?」
「んー仕事で使うものとか?? にしてもなんて奇行なことする旦那なの!」
「やっていい奇行とダメな奇行があるわよね」
「そうよ。ま、そんな大したことじゃないはずだからほっとけってレモーネに伝えて。心配ないわよ」
「そう? じゃああまり気にしすぎないようにって伝えるからね。ルッコのホテルにみんなで行って近々息抜きでもさせてみるわ。ルッコも身体には気をつけなさいよ。じゃあ、元気でね」
「待ってるわ。ママこそね。また電話してね。おやすみ」
電話を切った。
数週間ぶりの母との電話は、あっけなく海風かのように、終了した。
「一体、ザッキーったら何してんのかしら」とプンスカした様子でねむりについた。
晴れ渡る日差しがカーテンから差し込む中朝が来た。今日もいつもと変わらず波の音で起こされる朝。
「今日も相変わらずお客さんは来ないわね」と呟くルッコ。
一通りホテル内の掃除を終え、いつも通り窓からぼんやりと海を眺めていた。
すると、聴き慣れない機械音が。
ブブブブブブ、ブブブブブブ。
明らかにエンジン音だ。
やはり、反対側の窓を見ると珍しいことに小さなヴィンテージ車がホテルの目の前に止まっていた。
「わぁ!! お客様かしら。珍しい」
ルッコは海の高波かのように高鳴る胸を抑えて、空気を吸うよりもはやく階段をわんぱく大将のように降りた。
ルッコが、木の分厚い玄関ドアをギギギと厳しい音を出しながら久しぶりにあけるのが、バレてしまうほどな気持ちで開けた。
「いらっしゃい・・・・・・ま?・・・・・・せ」
ルッコの花が咲くような笑顔は、一瞬でしぼんだように真顔になった。
それはそのはずだ。
目の前に立ちすくんで居たのは、間違いなくルッコの元恋人、ガッシアだった。
ルッコはどんな顔にすればいいのか分からず、とりあえずドアが閉まらないように抑えるしかなかった。
「あ。え・・・・・・ひ、久しぶり。いや、いらっしゃいませ」
固まりかけのルッコから口を開いた。
「ルッコ。久しぶり。元気だったか?」
ザッキーは不思議なことにルッコが出てきたことを当たり前かのような顔で見ていた。
なんなら、居たことを知っている表情すらある。
「あれ? 驚かないの? 私がでてきて(笑)。だって通りがかりでしょ。どう考えたって」
ルッコは思わず一番気になったことを聞いてしまった。
「あ。うん。まぁ。驚いているよ」
棒読みかのように答えた。
何か変な態度だと感じたが、あまりの驚きから動揺を隠せないでいたため、あまり深く聞く気にもならなかった。
ルッコは冷静に接客した。
「一泊のご宿泊でよろしいでしょうか」
「いや、ちょっとこっちで仕事したくてね。1週間泊まりたいんだけど、予約あいてるかな」
思わず長期滞在に少し嬉しい気持ちが隠せないルッコ。
「もちろんです! 予約は見ての通り0だから。いつまででもご宿泊できます」
「それはよかったよ。じゃあ頼む」
なんだか、ガッシアとは8年も付き合っていたというのによそよそしい2人が気持ち悪い。
「じゃあお部屋にご案内します」
誰もいないため、ガッシアにはこのホテルで、一番いい部屋に案内をした。
「どうぞ。Sea is Sun という一番いいお部屋になります」
ドアを開けると、そこには太陽の光がカーペットのように部屋中を照らしていた。
フカフカなダブルベッドの上にはどこの誰かが書いたイタリアの街並みの風景画がかけられている。
おっっきな窓から、汚れやゴミを知らない白い砂浜に、輝きながら青いグラデーションで豊かな顔を持つ海が楽しんでいる。
それはもう楽園だ。
「素敵な部屋だね、ルッコ。とても気に入ったよ」
「それはよかった。自慢の客室なのよ。ゆっくりくつろいでね。夕食は19時から。まぁ言っても、あなたしかゲストはいないから、好きな時間でいいわ。下のレストランで食べれるけど、いる?」
「あぁ。もちろん、頂くよ。君が作るんだろう? 楽しみにしているよ。19時にね」
「わかったわ。じゃあ、19時に、レストランで」
そう言うとルッコは部屋を後にした。
2人の会話はいつのまにか緊張が取れたのか少しずつ"あの二人"に戻っていた。
フワフワした感覚を感じたルッコ。
改めて、ガッシアが来たことを冷静に考えながら夕食の支度をしていた。
「なんで、急に来たのかしら。しかもこんな辺鄙な場所。どうやってみつけたのかしら・・・・・・」
考えれば、考えるほど不思議でたまらなかった。
でもなんだか心は晴れ晴れとウキウキしていた。
それはそのはず。
ルッコは、ガッシアのことをとても愛していた。
人生で一番の大恋愛でもあった。
別れた理由は、ガッシアの仕事。
あまりに多忙なガッシアは出張三昧でルッコとの時間を少しも取れていなかった。
その為会えば喧嘩。
ガッシアの昇進もかかってきたある日、あまりの喧嘩の多さに耐えられなくなったガッシアはルッコの前から姿を消した。
置き手紙には、「今までありがとう。愛していたよ。心から。世界一の幸せ者になるんだよ。さよなら」と、ガッシアの優しさが文字にも詰まっていた。
ルッコが喧嘩をふっかけ、わがままをいい、ガッシアを困らしていた為、ルッコは自分をたくさん責めた。
優しいガッシアにたくさんひどいことをしていたのだ。
まさか居なくなる日がくるなんてルッコは考えたこともなかった。
物理的な距離は離れたものの、ルッコの心の距離はあの日から離れたことはなかったのだ。
だからこんな形で再会できたことがルッコにとっては嬉しくてたまらなかったのだ。
伝えたかったことを、ガッシアがいる1週間以内に伝えられるかばかりを気にしてしまう。
時計は19時になろうとしていた。
テラスのレストランは薄暗い海をキャンドルたちがライトアップしていた。
「やぁ」
ガッシアがやってきた。
「くつろげた?? お腹は減ってる?」
「部屋は快適で、ついつい昼寝をしちゃったよ(笑)。おかげでお腹ペコペコだ」
「よかった! ゲストも他にいないからガッシアが好きなご飯にしたわ」
そう言うと厨房から、前菜を運んだ。
「はい。ホタテとアスパラのホワイトソースがけです」
「きれいだなー。僕の好きなホタテだ!! やったぁ! じゃあ頂きます」
そう言っておいしそうな前菜に手を伸ばした。
ルッコはさりげなく厨房に戻った。
すると「ルッコもここにいてよ」。
ガッシアにそう声を掛けられた。
「いいの?」
「あーもちろんだ。ちょっと話そうじゃないか」
そう言われると、ルッコはガッシアの目の前の席にちょこんと座った。
ざーざー。
海の動く音が2人の耳の中に入ってきた。
ルッコはずっと気になっていたことを話してみることにした。
「なんでこのホテルにきたの?」
「んー。どうしてだと思う?」
「偶然にしてはこんなところに来るなんて思えないし、わざわざだとしたらどうして?」
「これだけは言っておくけど偶然ではないよ」
「え? そうなの? じゃあどうして?」
「何も飾りをつけないで言うのなら、君に会いに来たんだよ」
ルッコは、胸の高鳴りを抑えられなかった。
初恋をしたかのように顔が火照る。
自分の体が熱くなるのが、心底感じた。
「私も会いたかったわ。ずっとずっと会いたかった」
ルッコは喉まで来た言葉を素直に口にした。
その夜2人は今までの2年間を埋めるようにたくさんの話をした。波が2人の話のBGMのように静かに心地よく奏でていた。
次の日。
「うぅ〜。頭痛い〜」
ルッコは昨夜、話に花が咲いたと同時に久しぶりにワインを飲みすぎた。
太陽の日差しがそれをさらにヒートアップさせた。
「おはようルッコ!」
平然な顔をしたガッシアが部屋から降りてきた。
「おはよ。そうだった。あなたは相変わらずお酒が強いわね。私は久しぶりのワインで頭ガンガンよ」
「大丈夫かい? お水持ってくるよ」
ガッシアの優しさは健在。
少し冷えた水をルッコに渡した。
「ありがとうガッシア」
「僕は少し散歩してから、部屋で仕事をするよ。あ、そうだ。今日19時からあいてる? 海辺を少し散歩しないか?」
「えぇ。もちろん。飛び入りゲストが来たらあれだけど・・・・・・まぁきっと来ないから大丈夫よ!(笑)」
「よかった。じゃあ19時に」
ルッコは明らかに今夜がたのしみになった。
あっという間に夜がきた。
19時なると、ガッシアがロビーのルッコがいる場所に迎えにきた。
「え? どうしたの? その格好」
白シャツに白のハーフパンツのかなり清潔感たっぷりのガッシアがそこにはいた。
「え? そう? まぁ久しぶりのデートみたいなもんだから」
「で、デートなの? なんか照れるね」
ルッコは急にデートなんて言われたもんだったから、冷静な顔を急遽したが、内心乙女心は爆破していた。
そうして2人は、星が散りばめられた空の下で海辺をデートという名の二人歩きをした。
サクサクと足で踏むと沈む砂浜。
「ねぇ、ルッコ。僕がいきなり姿を消して怒ってない? もう許してくれてる?」
ガッシアが口を開いた。
「え? なにいってるのよ! 怒るもなにも後悔の嵐だったわ。だってガッシアは何も悪くなかったもの。私が仕事を理解してあげれず、自分ばかりだったから。ガッシアが出ていくのも当然だったわ。今考えるとね」
「優しいね、ルッコは。僕を責めないなんて」
「優しいのは、ガッシアよ」
立ち止まるとガッシアは星空を見ながら話しだした。
「僕は2年間、君を忘れたことはなかった。でも会社で重大なプロジェクトに関わっていたから、ついプライベートだなんてお気軽なこと気にしてられなくて」
「えぇ。わかるわ、とっても」
「でもルッコと離れて2年。仕事には集中できたとはいえ、何の為に頑張ってるんだかを見失ったんだ。そして僕は今ここに全ての仕事を辞めてやってきた」
「え?! ガッシア、何を言ってるの?」
「きみが受け入れてくれるなら、僕はきみとこのエリンギキャンパスを守っていきたい。そして、君の笑顔の源になりたい。ルッコ、僕と結婚してくれないか」
ルッコの耳から全ての音が消えた。
波の音すら、風の音すら入ってこない。
聞こえてくるのは、自分の心臓の音が早いってことだけだった。
嬉しさと喜びが喉で渋滞し、なかなか思いが口に出てこない。
「ルッコ?」
優しいガッシアの声が聞こえてきた。
ルッコの頬には涙が通っていた。
そして「も、もちろん。ガッシア、私もあなたを365日笑わせれるような存在でいたい」。
2人はそれ以上の言葉を言わずとも身体を抱き寄せあった。
その瞬間、反対側の道路からプップーとでかいクラクションがなりあがった。
「あら? こんな時間に誰かしら」
その瞬間「コングラッチュレーション!」と、ルッコの家族全員がでてきた。
「え? まって。なんでみんないるの? 知ってたの?」
「ルッコ〜! 知ってたもなにも、私がザッキーの奇妙な行動で相談電話したじゃない? あれ、レモーネに詳しく聞いてみるように言ったらね、なんと夜な夜な書いていたのはあんたのこのホテルの地図だったのよ。ザッキーたら地図書いたことないからとにかくヘンテコな絵で最初は頭おかしくなっちゃったのかって心配してたけど、理由聞いたらガッシアがプロポーズしたいから、ルッコに秘密で地図を書いてくれってお願いしてたみたいよ」
母がペラペラとあっけなく全貌を明かした。
「なんだぁ。奇行ってのは全てこの事に繋がっていたのね」
「おねぇちゃんのことだから、ぜっったいプロポーズ受け入れると思ってたから、みんなでお祝いしたくて、ガッシアさんと連絡取り合って今日の夜いこってなったのよ! ルッコ本当におめでとう!」
「レモーネ、ありがとう。本当に、わたし夢の中にいるみたい」
「なんか心配かけちゃってさーせんでした。なんか協力したくて、俺っ!」
ザッキーが明るい声で場を飛ばした。
「いいのよ。むしろザッキーのおかげよ。ありがとうね」
「どいたまっす!」
「ルッコ、僕が一生君を幸せにするからね」
「うん、ガッシア。ずっとずっとそばに居させてください」
空を見上げる家族一同。
「あ、みんな見て。光の輪っかで空がおっきなバナナみたいでしょ? あれなんていうか知ってる?」
ガッシアが指で空をなぞりながら説明してきた。
「キレーねぇ。知らない。なんていうの?」
「海の上に浮かんだバナナが今にも動きだしそうに見えるからって、バナナフィッシュっていうんだよ」
「あはっ、可愛い名前」
「エリンギキャンパスには敵わないけどなぁ」
「はっはっはっは」
みんなの明るい笑い声は空まで届いた。
バナナフィッシュを見るには、それはそれはうってつけの日だった。
のちに、「エリンギキャンパス」はガッシアの長年積み重ねてきた営業力のおかげで、「バナナフィッシュ」という名前に改名することになった。
(編集部より)本当はこんな物語です!
海辺のホテルの一室、マニキュアを塗っていたミュリエル・グラースのもとに、ニューヨークの母親から電話がかかってきます。兵役を終えて間もない、娘の夫・シーモアの精神面を心配しているようです。同じ時間、シーモアはビーチで一人の少女と出会い、バナナフィッシュをつかまえようと提案します。「バナナが入っている穴に泳いでいくバナナフィッシュにうってつけの日だから」。そんな二人を波が襲い・・・・・・。
カレンさんがこの連載で取り上げた「ライ麦畑でつかまえて」の作者サリンジャーの自選短編集「ナイン・ストーリーズ」の冒頭におかれた一編。衝撃的なラストシーンが印象的で、彼が後々まで書き続けた「グラース家の物語(グラース・サーガ)」の最初の作品でもあります。邦題は訳者によって異なりますが、「バナナフィッシュにうってつけの日」は野崎孝訳。原題は「A Perfect Day for Bananafish」です。