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刻むコロナ時代 優れた小説は、未来も証言する 作家・小野正嗣〈朝日新聞文芸時評20年7月〉

川上建次 猫の逆襲

 コロナ禍が続いている。この世界にいる限り誰も無関係ではいられない未曾有(みぞう)の事態に、各文芸誌の特集が示すように文学者たちが様々なやり方で応答している。

 それらの仕事はフィクションであれノンフィクションであれ、いずれ、ある時代(コロナ時代?)に作家やその周囲の人々がどのように感じ、行動したかについての重要な証言になるだろう。

 作家の創造性・芸術性の探求・表出である小説が、架空の個人の生涯を描くことで、その人生を翻弄(ほんろう)する巨大な歴史の〈証言〉となることの不思議。ベルンハルト・シュリンクの『オルガ』(松永美穂訳、新潮社)はそんなことを考えさせる。

 主人公のオルガはきわめて周辺的な女性だ。19世紀末にプロイセン東部(現ポーランド西部)に生まれ、幼くして孤児となった彼女は、貧しい祖母に引き取られる。祖母はスラブ系の血の混じった孫を愛せない。オルガは裕福な農場主の息子ヘルベルトと恋仲になり、刻苦勉励して小学校教師になるが、身分の差ゆえに二人の結婚は認められない。

 一方ヘルベルトは、〈ここではないどこか〉に旅立たずにはいられない冒険家である。時おりオルガのもとを訪れるが、ついには北極圏への遠征に出かけ、帰らぬ人となる。

 ひたすら恋人を待つ女であるオルガは、受動的な存在に見える。だがそれも第一部までだ。第二部では、語り手の「ぼく」が、テロらしき爆発事件で亡くなった愛する老女オルガとの思い出を語りながら、彼女の人生の苦難と秘密を明らかにしていく。そして第三部では、書簡という形でオルガ自身の〈声〉が響きわたり、彼女の死の真の意味が明らかになる。これは小説だが、ドイツの歴史の暗部から目を背けず主体的に生き抜いた一人の女性の〈人生〉の証言とは言えないか。

     ◇

 18歳で誘拐・殺害された少女の短い生の証言として書かれたのが、イヴァン・ジャブロンカ『歴史家と少女殺人事件 レティシアの物語』(真野倫平訳、名古屋大学出版会)だ。
 驚くべき書物だ。ジャブロンカはフランスにおける孤児の問題を専門とする気鋭の歴史家である。ジャーナリストでもない彼が、二〇一一年にフランスを震撼(しんかん)させた、同時代の事件についてなぜ書かなければならなかったのか。『歴史は現代文学である』(同前)という野心的な著作でジャブロンカは、異なるジャンルに分離してしまった「文学」と「社会科学」それぞれの特性を包含したような新たな叙述方法を探求している。『歴史家と少女殺人事件』は、その実践だと言えよう。

 DVの頻発する貧困家庭に生まれたレティシアは、双子の姉とともに養護施設を経て里親に預けられ、職業高校を卒業してウェイトレスとして働き始めた矢先に殺害される。殺人犯の男もまた、彼女以上に苛烈(かれつ)な貧困と暴力の中で成長した累犯者だった。犯罪者の厳罰化を望む時の政権はこの悲劇を都合良く利用しようとする。ところが彼女たちの庇護者(ひごしゃ)である里父が、里子に性的暴行を加えていたことが明らかになる。

 作家が自由に想像力を駆使する歴史小説とも事実報道に徹するジャーナリズムとも違う。フランスの福祉、教育、司法・警察の諸制度など社会背景を克明に分析し、数多くの関係者へのインタビューを重ね、ときに小説的想像力に依拠しつつ、ジャブロンカが行おうとしているのは、犯人ばかりか政治や里父など男性的・父権的な暴力によっても不当に蹂躙(じゅうりん)された少女の命の尊厳を、その輝きを取り戻すことなのだ。

     

 あらゆる書物は、ある時代に生きた人々の〈生〉の記憶の貯蔵庫である。だからこそ、小川洋子が『密(ひそ)やかな結晶』(講談社文庫)で描いた、様々なものの記憶が失われ、その記憶を持つ者が「秘密警察」に弾圧されるミステリアスな島で、小説は焼かれなければならなかったのだろう。

 四半世紀前に書かれたこの小説はいま、英語に訳された世界中の小説から選ばれる国際ブッカー賞の最終候補になっている。「秘密警察」の摘発を恐れ、隠れ処(が)に身を潜める登場人物は、作家の愛するアンネ・フランクの経験を想起させる。

 だが、島からどこにも行けず、記憶の消失を甘受して日常に埋没する人々の生活は、コロナ禍の世界に生きる僕たちの姿にどこか重なる。しかも島は地震と津波に襲われる。

 そうなのだ。優れた小説は、過去ばかりか未来までも証言する。=朝日新聞2020年7月29日掲載