昭和の大作曲家、古関裕而が、春からのNHKの連続テレビ小説「エール」の主人公のモデルになっている。第1話は1964年の東京五輪の開会式。戦後20年目に、古関の名作「オリンピック・マーチ」が響き渡る。会場では、窪田正孝扮する主人公が、ついにこの日に辿(たど)り着いた感慨に耽(ふけ)る。寄り添うのは、二階堂ふみ演ずる、強烈な存在感のある妻。ドラマは作曲家誕生物語へと遡(さかのぼ)ってゆく。
そう、人間古関は妻を知らねば分からない。二人の結婚までは、夫妻の長男、古関正裕の著『君はるか』に活写される。小説仕立てだが、引用される膨大な恋文は本物。1929年、福島で銀行員をしながらクラシックの作曲家を目指す青年古関は、ほぼ独学で書き上げたオーケストラ曲をロンドンの楽譜出版社に送り、評価を得る。それを新聞で知った愛知・豊橋在住の声楽家の卵、内山金子(きんこ)が古関にファンレターを出し、文通が始まる。
会わずに育つ愛
古関は書く。「重苦しいこの東北の空の下には、一人の良き私の理解者も、一人の良き後援者もありません。只(ただ)、金子さん! 貴女一人だけです」。古関はまだ見ぬ金子を未来の大歌手と信じ、歌曲を作っては贈る。金子は興奮。二人の恋を「一世紀に一つの恋!」と呼ぶ。愛は会う前に成就する。不思議と思うなかれ。大正や昭和初期に、クラシックを志した地方の若者が周囲の無理解に苦しみ、遠方に救いを求めるのはよくある話だ。会わずとも愛も育つ。
が、現実は過酷だ。クラシックでは食えない。古関は欧州留学の夢を諦め、山田耕筰の推薦を得、東京で歌謡曲作家となる。愛する人と所帯を持つにはそれしかなかった。若き古関の伝記には謎も残るが、『君はるか』は肉親ならではの筋の通った解釈で読ませる。
兵の心を旋律に
さて、そのあとのことは、刑部(おさかべ)芳則の『古関裕而』と辻田真佐憲の『古関裕而の昭和史』が恰好(かっこう)の案内役を果たしてくれる。刑部は、歴史家らしい引いた目線で古関の人生を満遍なく事典的に書き込み、辻田は、よりジャーナリスティックに古関に切り込み、特に戦時期についての抉(えぐ)るような叙述に迫力を示す。
とにかく両書を通じて思い知らされるのは以下の事実だ。流行歌作家としての古関は、まだ多くの日本人が漫然と平時を生きられるつもりでいた日中戦争開始以前には日陰者だった。ところが、辛(つら)さや苦しさが時代の前に出、慰めや励ましなくして正気を保ちにくくなった、日中戦争から戦後の混乱期までは圧倒的に輝いた。曲の迫力や真摯(しんし)さや痛切さが飛びぬけた。そして、戦後日本の復興と繁栄を世界にアピールする一種の儀式であった、56年前の東京五輪の入場行進曲をもって、アクチュアルな役割をほぼ終えた。
古関は万人がエールを必要とする時代の大家であった。兵士の心の強気と弱気に引き裂かれた真情を旋律に表し得た「露営の歌」や「暁に祈る」、圧倒的戦意高揚歌としての「比島決戦の歌」や「突撃喇叭(ラッパ)鳴り渡る」、被爆国の哀歌としての「長崎の鐘」、焼け跡の希望の歌「とんがり帽子」等々。どれひとつ欠けても昭和の精神史は語れまい。
では、なぜ古関はそういう作曲ができたのか。例えば戦意高揚歌なら、当時の日本人なら誰しも知る軍隊ラッパの旋律のパターンを変容させる秘術を古関は心得ていたと愚考する。他にも幾つもの秘術を組み合わせ、近代日本人の集合的な音の記憶にしっかり触れる、古関ワールドが屹立(きつりつ)したのではないか。そう私は推察しているのだが。
今年の五輪は延期され、五輪の比でないほどに励ましの歌が必要な非常時が、唐突にやってきた。どのみち2020年は古関を欲する年であったのか。=朝日新聞2020年8月1日掲載