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忘れていたこと 柴崎友香

 一年ぶりの新しい本『百年と一日』を刊行したばかりで、取材を受けたり読んだ方の感想を聞く機会が多い。短編、というかとても短い話が三十三篇(へん)入っていて、どこにでもありそうな場所や身近にいるかもしれないと思える人たちの、長い時間を経たちいさなエピソードが連なった物語になっている。

 あの話がおもしろかった、自分にも似たことがあった、とそれぞれ注目するところが違うお話をうかがうのもうれしいし、なにより楽しいのは「ずっと忘れていたことを思い出した」エピソードを聞くことだ。

 今回の本では特に多いが、以前からわたしの他の小説についても、読んでいたら長い間忘れていたことをふと思い出した、という話を聞くことはよくある。小説と似た部分があるときもあれば、全然関係のないことなのになぜか急に記憶がよみがえった、というのもある。文中のある要素から連想して思い出すこともあるだろうし、小説を読むのは、普段直面している生活や時間から少し離れて感情や思考の違うところを使うので、予想外の回路が刺激されるからだろうか。

 わたしも、本を読んでいてそんなふうに忘れていたことを思い出すことがある。先日も、十年以上前に行ったカフェの風景が突然、脳裏に浮かんだ。非常用通路みたいな狭い通路を通った先に入口がある変わった店だった。だいたいの場所はわかるものの、いつ誰と、なぜそんなところに行ったのかは思い出せない。

 そうやって何年も何十年も一度も思い出さなかったことは、もし今思い出さなければそのまま忘れていたのだろうか。忘れたままだったとしたら、それは自分にとってなかったのと同じことだろうか。というようなことを、しばしば考える。むしろ忘れたままのことも多いだろう。

 思い出さないできごとも、その人のゆるぎない経験で人生を支える一部だと思うから、他人から見れば些細(ささい)なことを、わたしは小説に書くのかもしれない。=朝日新聞2020年8月12日掲載