「綾部修行時代」があった
――お二人は本当のところ、仲がいいんでしょうか。
村上:しょっちゅう飲みに行きますよね。
又吉:そうですね。
村上:出会った初期は又吉さんとよく吉祥寺に一緒に行ったり、高円寺の古着屋さんに連れて行ってもらったりしてたんですけど、半年か1年くらい仲良くしてもらったら、なぜか「お前は(相方の)綾部(祐二)のところに行け」って言われて。「綾部修行時代」が僕にはあったんです。
又吉:綾部って、すぐに人のものほしがるんですよ。僕と仲いい後輩がいると話しかけに行って、「俺の方が優しいぞ」みたいな感じをすごい出すんですよ。それで、「どうしたらいいですか」って後輩から相談を受けてて、見てられへんなと思って。それで村上とLLRの福田(恵悟)って後輩に、「お前ら2人は綾部のところに行ってくれ、あいつの気持ちを満たしてやってくれ」って。
村上:だから僕は、綾部さんの方に嫁いでるんです。それで何年後かに(千鳥の)大悟さんと仲良くなって、又吉さんも大悟さんと仲いいんで、再び飲むようになった、っていう感覚ですね。
――又吉さんがお笑い芸人を目指して1999年に上京してからの10年を、東京の風景とともにつづった『東京百景』を村上さんも読んだそうですが、感想を教えてください。
村上:ややこしいんですけど、又吉さんと結構しゃべっちゃってるんで、正解を出しちゃうかもしれない、ってなるとあんまりよくないなと思っちゃうんですよ。
又吉:なんか言(ゆ)えよ。
村上:僕は(本に)出てきてはいないんですけど、実は僕もいた景色はあるんですよ。「としまえん」とか。僕が最初に又吉さんとしゃべるきっかけになったのが、としまえんでの営業だったんですよ。
又吉:そやな。
豊島園
ある年の夏。連日、豊島園の屋外に設営された舞台に立った。芸人の誰かが株主優待券を持っていて、みんなでゴーカートに乗ろうという話になった。僕は初めての経験で凄く運転が下手なため仲間はおろか無関係なギャラリーからも笑われていた。(又吉直樹『東京百景』より)
村上:ゴーカートがまったくできなくて泣いてる子どもと、ガンガン壁にぶつかり続ける女の子、あれがすごくおもしろくて、マジで覚えてるんですよ(笑)。僕らが笑ってたんで悪いことしたなって思ったら、その女の子がもう一回ゴーカートに並び直すっていうことがあったんです。そこまでは書かれてないけど、僕もいた風景なんです。
又吉:優待券みたいなの持ってたの、誰?
村上:それは(相方の)亘(健太郎)が持ってたんです。そういう知ってる風景もあるし、僕が又吉さんに出会う前の時代もあるし、出会ってからよく行く場所もあるし。唯一出てきてないのは、「神戸らんぷ亭」かな。又吉さんがお金ないのに僕らにおごってくれようとするときは、とっておきみたいな感じで並木橋にある「神戸らんぷ亭」に連れて行くんです。
又吉:牛丼屋さんやけどな。僕にとってはごちそうやったんやね。おいしかったよな、らんぷ亭な。
村上:又吉さんはそこでカレーうどんばっかり食うっていう(笑)。もうなくなっちゃいましたもんね、らんぷ亭。
――としまえんも、今月いっぱいで閉園ですよね。
村上:そうですよ。だから本に出てくる景色がなくなっていくんですよね。
又吉:ハリー・ポッターな(*としまえんの跡地はハリー・ポッターのテーマパークになる予定)。下北沢の踏切もなくなったしな。
上京して初めて住んだ三鷹
三鷹下連雀二丁目のアパート
上京して最初に住んだアパートは、後から解ったのだが偶然にも太宰治の住居跡に建ったアパートだった。
そんなことも知らずに、僕は太宰が作品を書いた場所で、太宰の作品を貪るように読んでいた。今思えば不思議な体験だ。この部屋で太宰の文章を腹に入れたい衝動に駆られ、実際に新潮文庫を破って食べたことがある。紙の匂いがのどに引っ掛かって中々呑み込めなかった。本を食べてはいけないということも知らなかった。(又吉直樹『東京百景』より)
――又吉さんが上京して初めて住んだのが「三鷹」というのが渋いんですが、どうして三鷹だったんですか?
又吉:偶然で、荻窪に住もうと思ったんです。当時(吉本興業の)学校が赤坂にあって、丸ノ内線で一本で行けるから。あと「THE BOOM」ってバンドがすごく好きで、(ボーカリストの)宮沢和史さんの詩が小学校の頃から好きなんですけど、「中央線」って曲があって、(荻窪駅がある)中央線の名前はその曲で馴染みがあったんですよね。
「荻窪で」って渋谷の不動産屋に聞いたら、「荻窪はないけど、そっからちょっと下ったところに三鷹っていうのがあって、そこに一軒ありますよ」って言われて内見行って。その日のうちに決めて夜行バスで帰らなダメやったんで、もうほかに内見する時間がなくて、「ここにします」って決めたんです。
――そもそも大阪のご出身で、お笑いのために上京したのはなぜですか?
又吉:強豪校でサッカーやってて、3年の秋冬までサッカーあるんで、部活引退した後に大学とか就職ってむずかしいんですよ。だから夏の時点でレギュラーメンバー以外は早めに引退するんです。そっからみんな勉強して、進学とか就職のことを考え始めるんですけど、僕は一応最後まで残ったメンバーで。
そしたらだいたい、サッカー推薦の大学とか社会人の会社とかから話をいただくんですけど、僕は芸人になりたかったから「将来父親の仕事を継ぐ」ってウソを高1の時点でついてたんですよ。うちの親父は社長でもなんでもないし、雇われてる職人なんで、そんな会社ないんですね。
で、芸人になろうと思って大阪の劇場に行ったんですけど潰れてて、養成所に入るとうちの高校の監督が顔広くて吉本に知り合いがいたんで、バレちゃうなと思って、東京まで逃げてきたって感じですね。
今も毎日上京!?
――村上さんは大学で上京ですか?
又吉:今も茨城から通ってんねんやろ? 毎日上京してんちゃうの。
村上:鈴木奈々ちゃんじゃないですよ。鈴木奈々ちゃんはマジであっちから今も通ってるんで。1時間くらいで行けちゃうんですけど、終電が早いんでね。
又吉:やっぱ関東でもさ、上京っていうのはあるの?
村上:全然あります。東京は高校の時に買い物で1回か2回は行ったことがある、みたいなイメージで。だから大学の時に上京ってなったんですけど、1・2年の大学のキャンパスが神奈川だったんで、最初は本厚木に住んでたんですよ。なので肩透かし感もありましたけど。
――茨城が地元だったら、もっと東京が身近なのかと思っていました。
村上:行けるのは行けるんですよ。原宿に行こう、とかってなるんですけど、まず1回「柏」なんですよね。僕らは千葉の柏っていうのが練習場であって。東京だと終電は早いし、緊張するじゃないですか。疲れるし。お金もなくて、あの当時マルイとかに行っても結局買えないし。でも行ったからにはって1万5000円くらいのものを探す。そのためにめちゃくちゃいろんなところを見るんで、疲れて。
でも「てんや」に行けるのがすごくうれしかったです。渋谷と原宿の間に「てんや」があるじゃないですか。東京は天丼を食える場所だ、っていうイメージですね。今はふつうにあるかもしれないんですけど、当時ああいうチェーン店って地方に来るのがすごく遅くて、めずらしかったんですよね。
――又吉さんの『東京百景』を女優ののんさんが朗読している動画を拝見して、「ドブの底を這うような日々を送っていた」というフレーズをリフレインしていたのが印象的でした。上京してからの10年というのはそれに象徴される暮らしだったのでしょうか。
又吉:実際にドブの底を這うような日々を過ごしてましたからね。だからよく、『東京百景』とか僕が書く小説って「なんとなく昭和の匂いがする」とか言ってもらえて、上の世代の人たちが共感してくれたりするんですけど、昭和の匂いがするのは昭和が昭和やったからじゃないですか。今この時代に昭和の匂いがするっていうのは、当時の昭和とは全然意味が違ってて、それがスタンダードではないにも関わらず、昭和的な暮らしをしなければいけない人間が少なからずいるっていう。
――又吉さんもその一人だったと。
又吉:風呂なしのアパートに住んで、トイレ共同で、銭湯に通ってるって言ったら、「昭和やん」「現代じゃないやん」て言われるけど、現代なんですよ。それがふつうやったときは恥ずかしくもないやろうし、学生はみんなそうやったかもしれないけど、僕なんか20代後半でそんな暮らししてたから恥ずかしいし、当時の東京よりもいま温度上がってるし。昭和でもないねん、っていう。
中央線に住んでると売れない?
――でも又吉さん、村上さんとも今や東京で成功してると思うんですけど、見える景色は変わりましたか。
又吉:成功って感じでもないよな。
村上:バイトせずにこの仕事できてるっていうのはありますけどね。
又吉:好きなことやってるって感じはあるかな。
村上:芸人の人とかで、「お金ないときによくこの居酒屋行ってたんだよ」みたいな話ってあるじゃないですか。でも僕、お金がないときはめちゃくちゃチェーン店に行ってたんですよ。なんかいい感じの人情の店みたいな思い出がないんで、「村上健志物語」にしたときに絵にならないな、って。
又吉:そんなこと考えてるのがおもろいわ。まあ、行ける店は増えて、街の見方は変わりますね。要は自分が行けない店ってあまり視界に入らないんで。だから昔住んでたところに仕事で行ったときに、「こんな店、そういや昔からあったな」みたいなとこに行ってみたら、なんか楽しいとかはありますけどね。
――上京してから引っ越しもされていると思うんですが、生活の拠点というのはどのように決めているんですか?
又吉:何回も引っ越ししてますね。僕はでも、東京の知識があんまなくて、最初に住んだのが三鷹で中央線やったんで、中央線でええかなと思って高円寺と吉祥寺を行ったり来たりしてます。吉祥寺は合計したら10年くらい住んでて、高円寺も5、6年住んでますからね。30歳くらいになってようやく下北沢に初めて行って、1年だけ住みましたけど。そっからはもう、僕の言葉じゃなくて相方の言葉ですけど「高円寺とか吉祥寺とか下北に住むな」って言われて。「そんなやつ売れねえ」って(笑)。
村上:綾部さんはそういうところの逆に住んでましたもんね(笑)。いわゆる恵比寿とか、祐天寺みたいな。
又吉:中目黒とか、表参道みたいな。もともと中央線沿線に住んでる人たちが、自ら「中央線の呪い」って言ったりしてるんですよ。ここに住んでたら売れへん、みたいな。それを相方から「マジでお前出ろ、そのへん」って。
村上:一時ありましたよね、「中央線住んでるやつ売れない」みたいな逸話。
又吉:たぶん2000年初期くらいから、雑誌とかでそんなん見たな。ただね、僕やっぱり、中央線の西のへんがめっちゃ好きで。何者でもない人たちに対して寛容で、どんな人が住んでても許してくれるような街が。どんな格好してても誰もジロジロ見てこへんし、自分より奇天烈な格好してるやつもいっぱいおるし、ボロボロでもいいし、家賃2万5000円なんですって言っても恥ずかしくない、みたいな。馬鹿にするやつがおらんということですね。
下北沢の「ファッション苦労人」
――村上さんは本厚木を出てからは、どこに住んでいたんですか?
村上:僕は大学の時は下高井戸に住んで、その後阿佐ヶ谷に4、5年くらい住んでましたね。又吉さんはたぶん、街の雰囲気でかなり選んでると思うんですけど、僕は逆なんですよ。高円寺とか、おんぼろ家もありながらちょっと都会じゃないですか。飲み屋もいっぱいあって、人がよそからやって来る街じゃないですか。僕、そういう街があんまり好きじゃなくて。
高円寺の横の阿佐ケ谷はもともと阿佐ケ谷に住んでる人しかいないんで、そういう街が好きなんですよ。高円寺とか下北沢って、人がジロジロ見てこないのも事実だし、家賃2万5000円を馬鹿にしない優しさもあるんですけど、そういう街には「家賃2万5000円をちょっと誇りに思っちゃってる人もいる」っていうのを僕がうがった目で見ちゃうんです。
又吉:でもね、家賃2万5000円を誇れるのって、春の1カ月くらいだけやって。だから風呂なしの物件借りに行くと、不動産屋で言われんねん。村上みたいなこと言うんですよ、不動産屋が。みんな憧れてこういうところに住む人いるんだけども、大体2、3カ月で出て行くから風呂あった方がいいよ、みたいな。 「ここに来るまでの3年も風呂なしに住んでたんで大丈夫なんです」「あーそうなんだ」みたいなことも「あるある」であんねん、毎回。
村上:又吉さんは当時、マジの貧乏人じゃないですか。でもお笑いにはちゃんと行ってる。けど僕の大学くらいの友達の、「バンドもかじってますけど最終的に就職する」みたいな人たちがブランドとして下北沢みたいなところに住むこともあるじゃないですか。「ファッション苦労人」もいっぱいいる。だから僕はふつうの街に住みたいんです。
又吉:リアルは住んだらゴキブリ出るし、窓開けても隣の家の壁やし、日当たり悪いし、小虫おるし、寝られへんし、エアコンないから裸で、タオルで体拭いて。トイレ使おうと思ったら隣のやつが汚してて、気持ち悪いなと思って。だから僕、公園のトイレ使ってたんですよ。トイレ掃除するから5000円家賃まけてもらってたけど、何で他人が汚した便器を俺が洗わなあかんねん、て。夜中、隣のやつとすれ違って骨折してて、なに骨折してんねん、て(笑)。
――映画「劇場」に、その場面ありましたね。
又吉:生かしてましたね。
村上:不思議だよな~。阿佐ケ谷に住んでるときに何回か高円寺に行ったけど、40過ぎてるのにパンクみたいな格好してる人とか、すごいいるじゃないですか。
又吉:おるおる。
村上:どーしてるんだろうなって。
又吉:せやな。おもしろい街やけどな。