ずっとパンが嫌いだった。そうなった原因は学校給食だ。息子の通う小学校で給食を食べる機会があり、おいしいのに喫驚したが、自分が小中学生だった一九六〇年代、給食はまずかった。ことにパンがまずく、ぱさぱさの食パンに、べたつくばかりで味のないマーガリンを塗ったやつは、諦めて食べてはいたが、いやで仕方がなかった。家でもパンは食べていて、それはそんなこともなかったんだろうが、毎日の給食に辟易(へきえき)させられていたせいで、パンはまずいもの、との思い込みがわが心に深く刻印されたのだった。高校から大学へと進んで、給食からは解放され、まずくないパンを食べる機会は増えたものの、パンはまずい、との思い込みは長らく続いた。あれっ、パンってけっこうおいしんじゃないの? と思いはじめたのは八〇年代もなかば過ぎ、気づいてみると、巷(ちまた)ではパン屋が目につくようになり、それは九〇年代から世紀を超えていよいよ増殖した。
なるほどパンがうまいのはわかった。わかったが、パン好きになるほどではなく、かといって自分は米党というわけでもなくて、あえていえば酒党、それも日本酒派で、日本酒とパンの相性がよくないせいもあり、残りの人生、パンには無関心なまま光陰は過ぎ行くのだろうなと思われた。ところがである。その自分がパンを焼きはじめたのだから、わからないものだ。
きっかけはとくにない。が、新型コロナ禍で逼塞(ひっそく)を余儀なくされたことがあったのはうたがえないだろう。パンでも焼いてみるかと、あるとき思い立った。それが四月の初頭。スーパーに材料を買いにいったら、小麦の強力粉が払底しているのに愕然(がくぜん)とした。巣ごもりを強いられたあげく自分のように考えた人間は多いらしい。体によいなどとTVで紹介されたとたん、当の食品が店頭から消える現象を仄聞(そくぶん)するにつけ、情報に踊らされる世人を自分は馬鹿にしていた。だから狼狽(ろうばい)した。しかし自分は誰かが、たとえば大阪府知事のような人が「焼くといいよ」といったのを聞いてパンを焼こうと思ったわけでは決してない。このことだけはこの場をかりていっておきたい。
しかしどうして自分はパンを焼こうと思ったのか。考えればよくわからない。先にも書いたが、自分はパン好きでもないし、そもそも日本酒の晩酌にパンは合わない。魚の干物やカラスミならわかる。しかるになぜパンなのか? わからぬまま、小麦粉も手に入り、材料道具は揃(そろ)った。となればもはや作るしかない。果たしてうまく焼けたのか。それは次回に。=朝日新聞2020年10月3日掲載