新型コロナ禍で逼塞(ひっそく)するなか、思いたってパンを焼いてみたところ、案外うまくいって気をよくした自分は、その後もしばしば焼くことになったわけだけれど、焼くのはだいたい午後、近年すっかり朝型になった自分は、午前中に仕事を終えて、午後の時間がぽっかり空く――ことはなんだかんだであまりないが、たまにはある。そんなとき、パンでも焼こうか、となるわけだ。
何度も作れば自然手慣れてくる。妻に声援をやたら求めることも、粉を散らかすようなことももはやない。それでもオーブンから取り出すたび、姿形のよさに感心してしまう。これが飯ならば、生米と炊きあがった飯とのあいだには、形態において大きな違いがない。ところがパンの場合、あんな頼りなくふわふわした粉が堅固なパンとなるのが不思議かつ面白い。インスタントのイーストを使う自分の場合、だいたい二時間半くらいでできあがる。その間ずっと作業があるのではなく、大半は発酵と焼きあがりを待つ時間だから、本でも読んでいればいい。パンの焼ける香りを鼻にしつつ台所の丸椅子で文庫本を読むなどは、「お洒落(しゃれ)生活」みたいなタイトルの、つるつるした紙の雑誌にでてくる人のようで、とてもわがこととは思えぬが、事実そうなのだから仕方がない。
という次第で、わがパンライフは軌道に乗るかに見えたのだが、じつはすでにひとつ問題が生じていた。というのはパンが日本酒に合わない事実である。自分は酒呑(の)みで、一年三六五日、晩酌を欠かさない。休肝日はなし。しかも日本酒党である。ほぼ毎日、冷(ひ)やか燗(かん)で二合ほど呑む。肴(さかな)はとくに選ばない。刺身(さしみ)、塩辛、湯豆腐、魚のひらきといった定番はもちろん、ふつうに食卓にあがるようなおかずなら、中華ふう洋ふうを問わず、日本酒に合わないものはほとんどない。が、ここにひとつ例外があって、それはパンである。
逆にパンにはワインがじつによく合う。これはやはり聖餐(せいさん)の伝統のなせる業なのか、フランスパンとワインだけで十分満足できるし、そこにチーズでも加わればもう万々歳だ。チーズだけなら日本酒でもいけるのである。しかしパンはだめだ。パンを肴に熱燗、というのは考えにくい。米と日本酒の相性がよいのはいうまでもないが、考えてみれば自分は晩酌中には飯を食べない。ひとしきり呑んで、〆に飯のスタイルである。であるならば、酒を呑み終えてからパンを食べればいいのではないか。しかし、湯豆腐で晩酌したあと、さあパンを食べよう、というのはどうなんだろう。いや、そもそも日本酒に合うパンを作ればいいわけで、あるいはそんなものがすでに存在するのか。いまやこれがわがパンライフにおける喫緊の課題である。=朝日新聞2020年10月24日掲載