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川越宗一さんが遊びそっちのけで読みふけった「吉川三国志」 おぼろげな記憶の中に刻まれた色褪せぬ名作

 ぼくは吉川英治の『三国志』という歴史小説が大好きだった。「吉川三国志」と通称される、数多の三国志ものの中でも金字塔といっていい作品だ。

 そんな吉川三国志に出会ったのはたしか小学生のころ。正月、若かりしころに同作を読んでいた父に「おもしろいぞ」という推奨とともに買い与えられた。読みはじめたとたんに夢中になり、新年の恒例であった家族でのボウリング大会でもゲームそっちのけで読みふけっていた。幸いなことに処分や紛失を免れ、いまも文庫本全8巻は手元にある。

 さて、吉川三国志の何がぼくの心を捉えたのだろうか。なつかしさとともに再読し、そして、首を捻った。本作品の何がぼくの心を捉えたのか、さっぱり思い出せないのだ。

 滔々と黄河が流れる中国で、数多の英雄や悪漢が大志を秘め野心を滾らせ、武を競い智を巡らせる壮大な物語は、心が躍る。平明な文章にスルリと折りこまれる匹夫、孺子、白旄黄鉞などの漢語は、格調高く美しい。主人公のひとり劉備玄徳(作中の表記にならう)は「人間あっての宇宙だ。人間がない宇宙などただの空虚ではないか」と、神を迷信の世界へ逐いやった近代人のような人間賛歌を叫ぶのだが、これも熱くてかっこいい。

 偉大な先人の作を評するなど増長の極みと思いつつ、ここでのぼくは読み手であるから許してほしいのだが、今読んでもいささかも色褪せぬ名作だ。けどやはり、当時小学生だったぼくが本作のどこに魅了されたのか思い出せない。首を捻ったまま何気なく奥付を見ると「一九九一年八月二十六日第十二刷発行」とあった。逆算すると吉川三国志に出会ったとき、ぼくは小学生ではなく中学生になっている。記憶とはまこと曖昧なものである。

 こうなると、周辺の記憶も怪しくなってくる。父が買ってくれたのか、自分が買ったのか。家族ボウリング大会の景色は夢だったのか。そういえばぼくはあまり過去を振り返らないほうなのだが、それは性格ではなくて単に振り返るべき過去を失っていたからではないか。などとしょうもないことを考えてしまう。

 もはや真偽の確かめようがない記憶のまま書くが、たぶん吉川三国志はぼくが初めて読んだ小説だ。初めて、というくくりなら両親が何となく家に置いていた『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』も候補に入るのだが、中身は覚えていないし、たぶん内容は理解できていないはずだから、読んだというにはちょっと心もとない。

 それに、ぼくが吉川三国志を好きであったことは否みようがない。人物やその盛衰は一通り頭に入っているし、「卒の張飛の命令です」など名セリフはいまも覚えている(セリフを覚えているのはあと『銀河英雄伝説』くらいだ)。北方謙三版『三国志』では呂布という人物の解釈に惚れてしまいそうなほど唸ったのだけれど、それは吉川三国志での呂布のイメージがあったからだ。

 幸運だった。おぼろげな記憶を再構成しながら、ぼくは偽りなく、そう思う。はじめて読んだ小説が好きでなかったら、ぼくが小説を書くことはきっとなかっただろうから。