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〈透明〉の怖さ 不可視化が奪う個人の尊厳 作家・小野正嗣〈朝日新聞文芸時評20年10月〉

蔦谷楽 Daily Drawings Spider’s Thread Day 5: The Eye / 目

 どんな語も文脈によってポジティブにもネガティブにもなりうる。〈透明性〉という語もそうだろう。

 政治、行政、教育、企業活動において「透明性を高める」とは、〈説明責任〉という概念と結びつき、個々の行動や決定の根拠、その合理性・合法性を明らかにすることだ。

 だが、マルク・デュガン『透明性』(中島さおり訳、早川書房)における〈透明性〉の意味はそれとはちがう。小説の舞台の二〇六八年の地球では、取り返しのつかないほどに環境破壊は進み、貧富の差は著しく拡大し、人々はITによってつねに監視されている。

 興味深いことに、その監視は抑圧的なものではない。快適な生活を求める人々は、さまざまなデバイスを通じて個人情報を自発的に企業に提供する。つまり個々人はプライバシーを放棄することで「透明人間」になり、そうやって「常時監視」の対象となることで報酬すら得ている。つまり〈自発的隷従〉である。

 もしもこの監視が究極の発展を遂げれば、一人の人間の社会的・身体的情報ばかりか、意識や無意識を含む〈魂〉の領域までデジタル化して記録できるのではないか。デジタル化した魂であれば再生は無限に可能だ。つまり〈不死〉が実現される。

 『透明性』の主人公はそのような構想のもと、絶滅必至の人類の救済を企て、地球を実質的に支配する巨大IT企業に戦いを挑む。

 この小説での〈透明性〉は個々人の尊厳を奪う。そもそも社会において透明になるとは、どういうことか? 周囲の人間に見えなくなる、つまり社会の周辺に差別・排除され、存在そのものを否定されることだ。

     

 カナダの巨匠マーガレット・アトウッドの『誓願』(鴻巣友季子訳、早川書房)で、不可視の領域に追いやられ差別を受けるのは女性だ。

 彼女のディストピア小説の傑作『侍女の物語』(斎藤英治訳、ハヤカワepi文庫)は、これを原作とするテレビドラマシリーズが話題になっているが、『誓願』は同じ舞台設定のもとに書かれた小説である。

 北米大陸に成立した「ギレアデ共和国」は、キリスト教原理主義と家父長制に支えられた全体主義国家で、女性は公の場から追放されている。厳格な身分制社会で、女性は四つの階級に分類され、なかでも〈侍女〉は性的にふしだらな存在として激しく差別され、同時に妊娠・出産のための道具として酷使される。

 そうやって自らの身体の自由を奪われた〈侍女〉は名前もまた奪われ、所有者の男性が変わるたびに名前も変えられる。

 女性たちが閉じ込められた家庭などの私的空間は家父長的権力の暗く陰険な影に覆われている。女性への性的な虐待や暴力が日常化し、公共空間に〈声〉を持たない被害者の女性たちはただ沈黙を強いられる。

 語り手の一人、アグネスという少女は、出産の際に腹を裂かれ血まみれになって死を遂げた〈侍女〉の亡骸(なきがら)に向かって、「あなたのこと、ぜったい忘れない」と話しかける。「ほかのみんなは忘れても、わたしは忘れないって約束する」

 この〈侍女〉の奪われた本当の名が「クリスタル」であることにハッとする。クリスタルとは、水晶、つまり透明さを特徴とする石でもあるからだ。小説を書くことは、忘却や無関心の闇に包まれた不可視の領域を光で照らし、犠牲者たちの〈名〉と〈声〉を、その尊厳を取り戻すことだ。アグネスの約束は、アトウッド自身が文学に対して立てた〈誓願〉なのかもしれない。

 思えば、透明=不可視の存在を可視化するための光こそ、文学や芸術であり哲学や思想なのではないか。それは人間の「生」に厚みを取り戻す営みでもあるはずだ。

     

 西谷修『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社現代新書)を読んで驚いた。世界史論や医療思想を独自の視点から考察してきたこの哲学者が、新自由主義によって公共的なものが解体され、その経済メカニズムが社会の階層分離、「新しい身分制」を生み出し、同時に不満や軋轢(あつれき)の解消を求める人々が国権の強化を志向する、と指摘するとき、デュガンやアトウッドの小説が持つ意義や可能性に思想的な見通しを与えられた気がしたのだ。

 これら三冊の描く世界の姿は暗澹(あんたん)たるものだ。だが、それは僕たちの生を麻痺(まひ)させ、輝きを奪う暗い〈不透明なもの〉を直視し、思考することを放棄していないからなのだ。そのことに励まされる。=朝日新聞2020年10月28日掲載