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忘却に抗する 心に蘇る、消し去れぬ記憶 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評25年7月〉

絵・大村雪乃

 私たちは記憶からできている。自分の名前から始まって、過去の感情や見た風景、様々な人々とのやり取りを心に蓄積することで、私たちは形作られる。それは社会や国も同じことだ。だが、そうした記憶は常に忘却にさらされている。だから私たちは記録をつけなければならない。けれどもそれが、知らぬ間に何者かに書き換えられていたらどうか。

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 柴崎友香『帰れない探偵』(講談社)の主人公は、各国を転々としながら依頼に応えていく。実は彼女は母国に帰ることができない。探偵学校で訓練を受けているあいだに政変が起こり、権威主義的な新政府が国を閉ざしてしまったからだ。だが、いくら国境を越えたところで、そうした支配の外側には出られない。

 たとえば彼女は調査のために図書館で地図を見る。そしてある違和感に気づく。デジタル化された地図の全体と細部の間に、彼女はちぐはぐさを感じる。どうやら、権力を持った者たちが高い技術を駆使して不都合な過去を抹消しているらしい。

 「前回開いたときの記憶をたぐり寄せるが、コピーは禁じられていることもあり、正確に比べることはできない。/たぶん、なにかが足りない」。恐ろしいのは、記録の改ざんに伴って、街自体も変形していくことだ。そのせいで、彼女は一度借りたはずの事務所兼住居に帰れなくなってしまう。

 ならば抵抗の手段はないのか。そんなことはない。時に、過去の友人の声が、もう使われなくなった言語とともに心の中で蘇(よみがえ)る。権力は、大事な人の記録をも消し去れる。けれども私たちは、その人について繰り返し物語ることができる。ささやかで粘り強い抵抗こそが文学のもつ意義である、と本作は教えてくれる。

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 小川洋子『サイレントシンガー』(文芸春秋)に登場する町では毎日、夕方五時になると役場から『家路』という曲が流れる。だがその曲を歌っている少女が誰かを覚えている者はいない。そしてこの、リリカという女性の生涯を、本書は丁寧にたどっていく。出産後すぐに、自分の長い髪を使って命を絶った母親の代わりに、リリカは祖母に育てられる。必要に追われた祖母は、「アカシアの野辺」という名の共同体に雇われ、彼らと外部をつなぐ役割を果たすようになる。

 極端に内気で声を発せず、指言葉というジェスチャーでしか会話しない彼らは、人里離れた場所に広大な土地を購入し、自分たちだけの世界を形作った。リリカの歌の才能が見出(みいだ)されたのもここである。年に一度、毛が刈られるとき、羊たちの心を鎮めるために、彼女の歌が有効だと分かったのだ。とりわけ上手(うま)いわけではないが、まるで森の木々を通り抜ける風のざわめきのように、その声は人々や動物たちを慰めることができる。どうやって歌っているのか。生涯にたった一人、恋した相手に問われて彼女は答える。「自分を空っぽにしているだけです」。あまりにも静かでエゴのない世界を描く本書は、喧騒(けんそう)に満ちた現代社会の中で輝きを放つ。

 村田沙耶香「忘却」(「文芸」秋号)の語り手は次々と言葉を失ってしまう。そして他の人がその言葉を発しても、たんたんという音にしか聞こえなくなる。なぜこうしたことが起こるのか。実は、彼女の体の中を蛇が自由に這(は)いずり回っていて、そのせいで脳が圧迫されているのだ。

 この蛇が何を表すのかはわからない。けれども、「恐ろしい自分の側面」という表現が出てくることから考えると、現代の社会に許容されないだろう欲望や、暴力的な衝動を指すことは容易に想像できる。だが、彼女はこの蛇を、人にちゃんと言葉で伝えることができない。だからこそ、気づけば袋の中に閉じ込められて挽(ひ)き肉にまで破壊される。そこには極端な絶望がある。

 キム・ソンミ『ビスケット』(矢島暁子訳、飛鳥新社)で、人から無視され、自尊心が粉々になってしまった人々は輪郭を失い、やがて姿が消えてしまう。そうして忘れ去られた、ビスケットと呼ばれる彼らを助けようと、高校生ジェソンが奮闘する。仲間たちと一緒に、児童虐待の被害者である女の子を助け出す展開は痛快だ。だが扱われている主題は重い。「そうやって疎外されると、多くの人は自尊心を失い、世の中に姿を現す勇気さえ失(な)くしてしまう」。中高生向けだという理由で、きちんと社会と向き合っている本書を読まないのはもったいない。=朝日新聞2025年7月25日掲載