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仮想のトルタ屋 星野智幸

 父は私が11歳のときに病死したのだが、まだ元気だった1970年代前半、パン作りに凝っていた時期があった。父の父、つまり私の祖父が、当時はまだマイナーだった天然酵母の開発に取り組んでおり、その影響だった。

 ドイツの黒パンらしきものを作ろうとしたのだろうが、できあがったのは酸味のある石だった。何度焼いても、石だった。齧(かじ)ると歯が欠けるのでいつまでたっても減らず、さらに固さを増していく。しまいには、おろし金ですってパン粉にした。

 この記憶のせいか、私は自分でパンを焼きたい気持ちは強くあるものの、いまだに試そうとしない。自分で焼かない限りクリアできない課題があるとわかっていても。

 私は小説を書けなくなったときの切り札として、トルタ屋になるというオプションを持っているのだ。

 トルタとはメキシコのサンドイッチで、シンプルなのだが一度食べたら毎日トルタのことで頭がいっぱいになるほど美味(おい)しい。1990年代にメキシコに留学していた若き私は、トルタとタコスばかり食べていた。

 帰国して何年かして作家デビューしたとき、小説でダメだったらトルタのスタンドを始めよう、と決めた。実際には商才のない私がそんな無謀に手を出したら、小説を書くより食っていけなくなることはわかっているのだけど、次善の策があるという安心感が、守りではなく攻めの姿勢で執筆するために必要だった。

 だから、トルタ作りには熱心に取り組んだ。せっかくなので、トルタ屋を主人公とした『呪文』という小説まで書いた。

 円盤型のパンを上下2つに切り、内側の白い部分を少し削(そ)いで、軽く焼く。その間に、フライパンでハムと割けるチーズを熱し、目玉焼きも作っておく。熱いパンの内側にバターを塗り(本当はフリホーレスという煮込んだペースト状の豆を塗る)、温めた具材のほか、スライスしたトマト、玉ねぎ、アボカドを重ね、塩を振る。そして一番大事なのが、ハラペーニョ(肉厚の青唐辛子)のピクルス。以上をパンではさんでかぶりつく。よだれ出る出る。

 このパンに、メキシコで売っているボリージョが必要なのだ。貧困対策で安く価格の定められている、小麦粉とイーストと塩だけの素朴なパンである。おそらく誰にでも簡単に焼ける。たぶん私でも。

 いつでもできる。事実かどうかとは別に、そう思っていられることが、ほんの少しのゆとりを保証してくれる。=朝日新聞2020年11月7日掲載