学生の頃、渋谷の画廊に入り浸っていたことがある。そこでウニカ・チュルンの画(え)をみた。奇妙な動物や不気味な人間の顔が連なったペン画は、意識の検閲を経ていない禍々(まがまが)しいものだった。画廊の兄貴分に彼女のこの本を紹介された。作家マンディアルグが仏語版序文で激賞したカルト的な本で、表題は空想中の彼女の愛を象徴する人物だ。
ウニカは1916年、ベルリン生まれ。画家ベルメールの愛人で、シュルレアリストたちと交流した。アナグラム詩や画を教えたのも彼らだ。心の病から入退院を繰り返し、不幸な最期を遂げる。収録された「暗い春」は傍観者のように三人称現在形で淡々と綴(つづ)られた自伝だが、微分回路的認知というものなのか、予感に溢(あふ)れどこか痛々しい。過剰な感性をもつ巫女(みこ)は不幸でさえある。無神経な人間の方が楽に生きられるというものだ。安易な解釈を拒む傷ついた少女の深淵(しんえん)がみえる繊細な本だと思う。
母との関係は悪く、兄には性的暴行を加えられ敵対、愛の対象である父は不在だ。時間の連続性が断たれ性的なイメージが横溢(おういつ)したテクストには、愛の不在が描かれる。愛が持続するには永遠に満たされない必要があるのだ。罪悪感と被虐感が彼女に付き纏(まと)い、影を落とす。空想は唯一の逃げ場であり、暗いペン先は暗い空想を辿(たど)ろうとする。
入社後、ウニカの本の企画を出して没になった。のちに、急逝したOBも同じ企画を温めていたことを知った。没後50年の今年、フランスでウニカの展覧会があったそうである。=朝日新聞2020年12月16日掲載