日々、iPhoneなどのスマホや、ワード文書、ドキュメントを通じて私たちが読んでいる文字。その書体(フォント)には一つひとつ名前がついている。ヒラギノや游明朝など、多くの人に届く書体は、字游工房の鳥海修さんが書体設計士として開発に関わった。特定のジャンルや作家のための書体なども生み出してきた。
「水のような、空気のような」書体は、いつの時代も主張することなく読者に寄り添う。文字の作り手が表に出ることはほとんどないが、書体はブックデザインに大きな影響を与える要素だ。40年に渡り、書体開発と向き合ってきた鳥海さんに話を聞いた。
山形で育った青年が「文字」に出会うまで
字游工房が開発したヒラギノ書体。
大日本スクリーン(現SCREENホールディングス)の依頼で制作された「ヒラギノ明朝体」「ヒラギノ角ゴシック体」「ヒラギノ丸ゴシック体」「ヒラギノ行書体」の4書体の一部は、2000年にApple社のMac OS Xに搭載された。
二月一六日、日本では幕張メッセでの発表となったが、当日はスティーブ・ジョブズがステージに立ち、スクリーンいっぱいに映し出されたヒラギノ明朝体W6の「愛」を指差し、「クール!」と叫んだことをきのうのことのように覚えている。『文字を作る仕事』鳥海修(晶文社)
また、ドラマ化もされた漫画家・松田奈緒子さんの『重版出来』(小学館)10巻には、小説に合わせて書体を開発する「書体設計士」が描かれる。取材に協力したのは、鳥海さんだ。
そもそも、「書体設計士」とはどんな仕事なのだろう。
「本文書体といったベーシックな書体は、個性を競うものではないよね。昔の写植からパソコンになったり、いまはデバイスもどんどん変わっていくなかで、本文書体も変わっていくんだけど、読む人がそれほど意識しなくても普通に読みやすい当たり前の文字を、時代ごとに作っていく仕事かな」
鳥海さんが、文字を作る仕事を知ったのは、多摩美術大学に通う学生だった頃。
車のデザイナーに憧れ、工業デザイン科を目指して2浪したが叶わず、「全然興味がなかった」グラフィックデザイン科に進学した。
1970年代、水俣病などの公害が深刻な問題になっていた。山形の自然豊かな庄内平野で生まれ育った鳥海さんは、身近な自然が失われていくのを実感していた。だからこそ、世の中のためにならない企業の広告にも関わる仕事に興味が持てなかったのだ。
大学3年、消去法で選んだ専門は「文字デザイン」だった。先生は、授業のかたわら、文字を仕事にする現場に連れていってくれた。寄席文字の橘流の家元・橘右近さんや書体デザイナーの三宅康文さんらを訪ねたという。
毎日新聞東京本社を見学したある日、小塚昌彦さんが案内してくれた。後に書体メーカー「モリサワ」に移籍し、今やスタンダードとなった明朝体「リュウミン」のファミリー化や、アドビの小塚明朝、小塚ゴシックを手がけた重鎮だ。
ここで鳥海さんは、部屋の片隅でレタリングするデザイナーに目を奪われる。
「サインペンで書いているのに、線は真っ直ぐだし、カーブもよれてない。『こんなに綺麗に書くんだ!』ってびっくりしたんだよね。6〜8センチ四方のカタカナだったと思うんだけど、『この文字は、活字の元だよ』と。『文字って何だ?』『このいっぱいある活字、人が作ったの?』と驚いたんですよ」
「文字は、日本人にとって、水であり米である」。帰り際、小塚さんが発したこの言葉が、鳥海さんの心を打つ。
「水と米は、私の生まれ育った庄内平野なんですよ。その瞬間に、『これは絶対やろう』と決めたの。わずか1時間の工場見学の間に、私の進路が見えたんですよね」
「写研」で学んだ文字づくりと出会い
「文字デザインをやらせてくれるなら、どこでもいい」。就職課にあった求人に張り紙から見つけたのが写研だった。1970年代から90年代にかけて、IT化する前の日本で書体をほぼ独占した写植機および書体のメーカーだ。
文字部原字課に配属された鳥海さん。最初の研修は、写研が誇る石井細明朝体で、見本を見ながら自分の名前を書く、というものだった。新人は、ここで大いに洗礼を受ける。
「『ここおかしいでしょう? ちょっと太くない?』と言われるわけですよ。『ちゃんと直しておいで』と言われて、直していくと、今度は『これちょっと揺れてるでしょう?』って。もう、どこまでやっても終わらない(笑)」
「当時は、大卒で写研に入った人は少なくて、美大卒だったし、ちょっとプライドがあったんですよ。ところが、隣にいた先輩に、『どうしたらいいかわかんないよ』と言ったら、さあーっと直しちゃったの。もう全然違った。自分のヘタさ加減に呆れて、そのときプライドは捨てました」
写研では、橋本和夫さんに出会った。金属活字・写植書体・デジタルフォントの書体開発を手がけ、85歳になった今も現役で活躍する書体設計士の第一人者だ。
「橋本さんは当時、最終的なチェックをするけど、指導はあんまりしないポジションだった。ただ私のアパートと橋本さんの家は近所で、工場までバスで通えたんです。バスの本数が少ないから一緒になって。バス停から結構歩くんだ(笑)。そこで、本文書体の理想は『水のような空気のような……』なんて話をしながら通いましたね」
「橋本さんは会社の書道部の顧問もされていて、私も入って部長になったりして。橋本さんは、『書道が上手になる必要はない。筆遣いを覚えておけばそれでいいんだよ』と言っていましたね。私も後輩に教えるときに、同じことを言うと思う」
藤沢周平を組むーー時代小説が読める書体
1989年、写研入社から10年が経ったタイミングで、2人の仲間と字游工房を立ち上げる。鳥海さんは、「私が鈴木さんに『一緒にやろう』ってけしかけたの」と笑う。
初代社長の鈴木勉さんは、写研が新書体を一般公募した石井賞タイプフェイスコンテンストで名前を伏せながら2回連続で第1位になり、「スーボ」「スーシャ」など時代を象徴する書体を生んだ、若くからその才能を発揮した書体設計士だ。職歴としては鳥海さんの10年先輩にあたり、2人とも酒好きでよく一緒に飲んだという。
そして、冒頭で触れたヒラギノの開発終了と前後して、字游工房初のオリジナル書体「游明朝体R」に取りかかる。きっかけは、装丁家・平野甲賀さんの一言だった。
「平野さんが訪ねてきて、『今度、一緒に飲むか』と鈴木さんを誘ってくれたんですよ。私も一緒に、神楽坂の料亭に連れて行ってもらって。鈴木さんは、真っ白のスーツを着てた」
話題は、時代小説の話になり、山本周五郎や池波正太郎、そして藤沢周平の名前が挙がった。
「平野さんが、『今さ、普通に小説が組める書体がないんだよ』って。DTPの走りの頃だったけど、『ヒラギノで時代小説、組めるか?』と言われて、『いやあ、組めないですね』と私が答えて。「だろう? お前ら作れよ」って。そこから始まったんですよ」
鈴木さんが漢字、鳥海さんがかなを作ると決めて、動き出した。
「これ、游明朝体の原字なんですけど、鈴木さんが書いたの。これを書いてから7000字の漢字を作り始めるわけです。でも1400ぐらい書いたときに病気がわかっちゃうんです」
鈴木さんの妻から「話したいことがある」と連絡があり、自宅を訪ねると、医師から膵臓がんで余命3カ月と告げられたことを明かされた。
「鈴木さんは春に手術して、秋に品川で天ぷらを一緒に食べて。『明日から会社行くから』って言って、少しお酒飲んで別れたんだけど。ところが(会社には)来られなかったですね」
翌年、鈴木さんは49歳の若さで亡くなった。後に、その功績を1冊の本にまとめ、鈴木さんと開発した游明朝体を本文書体にした。装丁はもちろん、平野さんが手がけた。
書体の「かな」はどう作るのか
今までに作った書体は、「全部思い入れがある」と話す鳥海さん。漢字とかなの違いについて、こう語った。
「漢字は、決まったパターンがあるというか、ある四角の中に横の長さはこれ、太さはこれ、みたいなルールがある。アルファベットほど厳密じゃないけど。かなは(ルールが)ないんだよね」
「仮名は、みんな大きさが全然違うじゃん。例えば、ここ(起筆)が膨れているか膨れていないかで、表情が変わるんですよ。もう、何がいいんだろうって考えちゃうんですよ。かなは細長い文字があったり、平べったい文字があったり、何でもいいわけですよ」
「こっちは横組み用の明朝体で、横に流れるように書いたから、ちょっと柔らかい。楷書系は、筆でぎゅっと押さえて上がっていく感じになんだけど、これはなんとなく始まって、なんとなく細くなって、なんとなく終わる。こっちが女性っぽい、という見え方もできます」
その書体ならではの形を見出す大変さが伝わってくる。まるで書体ごとにキャラを作っていくようだ。鳥海さんによると「書風」と表現するらしい。
谷川俊太郎の「詩」のために書体を作る
詩人・谷川俊太郎さんの詩のために、書体「朝靄(あさもや)」を開発したこともある。その取り組みをまとめた『本をつくる』(河出書房新社)を読むと、鳥海さんがかなり試行錯誤した様子がうかがえる。「俺、失敗したと思ったもん」と当時をふり返る。
「架空の人や亡くなった人とか、近代文学向けや女流文学向けとか、漠然としたテーマを与えられて、自分なりのイメージで作ったことはあった。谷川さんの場合もそのつもりで『できる』って答えたんだけど……やっている時に谷川さんの今までの足跡を追った分厚い本『詩人なんて呼ばれて』谷川俊太郎・尾形真理子(新潮社)が出たんですよ。それを読んだら作れなくなっちゃって」
「谷川さんの何かを感じ取って、一つの形にまとめるなんて不遜なことはできない。つまり私が谷川さんのイメージを固定することはできないと思ったんだよ。だから結局、自分なりに、谷川さんから笑われない文字を作ろうと思ったの」
こうして誕生した朝靄を、鳥海さんは「すーごい真面目」と表現する。
「『さ』とか『き』とか『ふ』とか。子どもたちが小学校の時に習う文字の形なんですよ。谷川さんは子ども向けの詩も書いてるじゃないですか。だから、すごくピュアな感じが出たらいいなと思ったんですよ。私のピュアさ加減です」
鳥海さんが手がけた書体を見て、谷川さんは詩を書き下ろした。
「まさか詩が送られてくると思わなかった。谷川さんの(既存の)詩を組むために作ってたので。詩が届いたときは、ああ、やってよかったと思ったね」
朝靄で組まれ、活版で刷られた谷川さんの詩は、生き生きしていた。「俺、これはいい本だなと思った」と鳥海さんはつぶやいた。
書体設計士の仕事は「バトンを渡す役」
鳥海さんの話は、自ら手がけた書体を離れ、書体の歴史にも及んだ。
パソコンを開いて、中国・西安の大雁塔を訪れたときの写真を見せてくれた。652年、唐の高僧・玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を収蔵するために建立され、脇の碑にはその功績が漢文で書かれている。「この『雁塔聖教序』は初唐の褚遂良の文字で、楷書の完成形なんです」。
日本に漢字がもたらされたのが650年頃。そして、字と字が連なる「連綿かな」が完成するのが、平安時代の800年頃だ。鳥海さんは「かなは、やっぱり一大発明ですよ」と話す。
さらに、約1000年に渡り、連なっていた「かな」が現在の五十音に分かれたのは、1869(明治2)年。中国から金属活字がもたらされたのがきっかけだ。
人々の営みの中で、綿々と受け継がれてきた知の結晶としての書体。鳥海さんは、自身の仕事を「私はバトンを渡すつなぎ役」と表現した。
「活字を作るって、明朝体とか、変わった看板に使われる珍しい字を作ればいい、と考えるかもしれないけど、辞書に使われる字、横組みと縦組み、新聞に使われる文字、用途によって文字のデザインって変わるのよ。やり続けることで、多くが見えてくる」
「いかに読みやすい文字を作るかは、いかに歴史にのっとって作るか。いまUD(ユニバーサルデザイン)フォントが注目されているけど、少しずつ現代が入ってくるんだよね。私たちは、その最先端にいるわけです。不易流行ですよ」
「文字って面白いですよ」。40年間、ひたむきに文字と向き合ってきた言葉だった。