〈今年四月二十九日に西多摩郡奥多摩町の北氷川橋(高さ二十六メートル)から日原川に飛び降りて死亡した二人の女性の身元は、二十四日までの青梅署の調べで、大田区のマンションに同居していたAさん(四五)、Bさん(四四)と分かった。二人は都内の私大時代の同級生だった〉
1994年9月25日付本紙東京版に掲載された記事だ。たったこれだけ。なのに、当時20代後半の恩田陸さんは衝撃を受けた。デビューして数年、まだ会社員と兼業していたころだ。以来、ずっととげのように刺さっていた、この記事をもとに新刊『灰の劇場』(河出書房新社)を書いた。
構想の段階では、2人の女性が同居し、死を選ぶまでを様々なシチュエーション別に書き分けようと思っていた。ところが、いざ書き始めてみると、自分の興味がよそにあると気づいた。「事件そのものより、なぜこの小さな記事に引っかかり、自分の中で残り続けたのか。テーマはそっちだった」
その結果、3層の時間が同時並行で進んでいく小説となった。「1」では2人の女性の物語が、「0」ではその執筆に取り組む〈私〉の日常が、そして「(1)」ではその物語を書き上げた後の〈私〉が「灰の劇場」の舞台化に立ち会う物語がつづられる。
版元は〈恩田陸の新境地となる、“事実に基づく物語”〉とうたう。本屋大賞の『夜のピクニック』や、同賞と直木賞をダブル受賞した『蜜蜂と遠雷』のエンタメに徹した路線とは打って変わり、『EPITAPH東京』『タマゴマジック』などで、小説とエッセーが混ざり合うような展開には親しんできた読者にも、今作はまた違った顔つきを見せる。
「書き終わってから、フィクションがどういうもので、どうやってできるのか、それが現実とどう関わっているのか、を書きたかったと気づいた」と恩田さんは言う。
常々、事実を書くとはどういうことか、虚実とは何か、と考えていた。「どんな新聞記事でも、ある意味主観的なもの。逆にフィクションだから書ける真実も絶対にある。『ポストトゥルース』という言葉があるくらい、虚実の境目がわからなくなっている」
「フィクションを書き続けているからかもしれない」と前置きして、「むしろ虚構にリアルを感じることがある」と言う。「ファミレスで周りの会話を聞くと、人ってこんなうそみたいなせりふをしゃべっているんだと、びっくりすることがある。小説で書いたらうそくさいことを、実際はみんな結構言っている」。また、かつて自分が書いた戯曲を役者が舞台で演じた時、説明のつもりで書いたせりふが自然に聞こえ、自然な会話のつもりで盛り込んだせりふがうそくさく聞こえたという。
虚実の揺らぎは、時間の感覚にも及ぶ。本書で流れる3層の時間は、時間としては独立しているが、少しずつシンクロしてもいる。「もしかすると、時間は連続していないのではないかと思う」と恩田さんは言う。子どもの頃からあった感覚だ。「自分が小説を書いている時は、小説だけの別の時間が流れているが、それに似た感覚。すぐ近くに、別の時間が並行してあるのではないかと、よく思います」。その時間は現実なのかフィクションなのか、もうわからないという。
書き終えて、「虚実はわからない、ということがわかった」と話す。フィクションとは何か、の答えは出ていない。=朝日新聞2021年2月24日掲載