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不意にやってくる 柴崎友香

 好きなアルバムを五枚紹介するラジオ番組に出演した。数多(あまた)の好きな音楽から五枚だけとは難題だけど、人生に深く関わった音楽ということで選び、そうすると十、二十代で聴いていた音楽になった。

 選ぶためにあれこれ久しぶりに聴いてみると、最初の数秒が流れた瞬間にどばーっと記憶が流れ出してくることが度々あった。その音楽を繰り返し聴いていた当時の、光景とか雰囲気とか、周りにあったすべての感触がよみがえる感覚だった。

 東京に引っ越して数か月はテレビを置かず、ずっとFMラジオを聴いていた。ラジオは地域の情報もわかるし、東京で暮らし始めた実感が湧いた。そのときヘビーローテーションだったいくつかの曲を、今たまに耳にすると、1Kの部屋の細かいところや秋から冬になる日差しの色まで一瞬にして見えてくる。

 二、三十年前の映画やドラマを見ても、映像に映るものよりBGMや街の音のほうに、最近は時代を感じる。音のほうが無意識に生活の中にあるから、そのときの自分が暮らしていた感覚と深く結びついているのかもしれない。それに近いのは、嗅覚(きゅうかく)だ。入った食堂のにおいに学生時代や以前訪れた観光地のことをふと思い出したりする。聴覚も嗅覚も、そんなふうに記憶をよみがえらせるのはいつも不意打ちだ。

 音もにおいも、目には見えなくて、空気の中に溶けているなにかのようにわたしはとらえている。身体がいつも接しているけれど、慣れてしまってもいる。

 だから、その不意打ちがやってくるのは、一定の時間を置いたあとだ。その音やにおいから離れて暮らした時間があるからこそ、急に意識される瞬間が訪れる。大阪に住んでいたときは海のにおいがするなんて思ったことはなかったが、東京に移ってから大阪に戻ったとき初めて、海が近い街なんやな、と気づいた。

 今生きているこの時間と結びつく音楽やにおいはなんだろう。それは何年かあとにしかわからない。=朝日新聞2021年3月3日掲載