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恋人よりもなお近く 澤田瞳子

 最近、一日中、眼鏡をかけている。十代前半からひどい近視で、裸眼ではフォークとナイフの区別すらつかない私はこれまで長らく、人と会うことが多い日中はコンタクト、それ以外は眼鏡という生活を続けていた。だが滅多に外出しない昨今、そんな切り替えは不要と気づいたのだ。

 現在かけている眼鏡は二年前に購入したもので、その際に使っていた眼鏡はいま、非常用として防災リュックに入っている。かつては毎日、肌身離さず使っていたのに、今は半年に一度、持ち出し用品の中身を入れ替える際、ちらりと確認するだけ。まるでとっくに別れているのに浮世のしがらみで顔を合わせ続ける、古い恋人のような関係だ。

 ただかつての交際相手なら、良きにしろ悪(あ)しきにしろ色々思い出があるだろうに、今は二軍に退いた眼鏡を取り出しても、これといった記憶が浮かばない。それは少々古びたその眼鏡をあまり使っていなかったためではなく、むしろ逆。毎日、まさに血肉の一部の如(ごと)くかけていたからこそかえって、それを客観視できないのだ。いわば私にとって眼鏡は記憶する客体の中になく、記憶する主体である己に属していると言えよう。

 考えてみれば、服や靴、アクセサリーの類を誰かに使ってもらうことはできるが、眼鏡はよほどの偶然でもない限り、そのまま人に譲れない。視力という個人データを反映したその医療器具は、本人だけに与えられたたった一つの窓であり、もう一対の目そのものなのだ。

 ちなみに使用時間が長くなったせいか、最近、私の眼鏡はネジが緩み、すぐに不格好にずり落ちて来る。おかげで頻繁にそれを指で押し上げる癖がついてしまい、たまにコンタクトを使っている時にまで、かけていない眼鏡を押し上げる動作をしてしまう。――はて、そう考えると実は眼鏡に振り回され、眼鏡に使われているのはこちらの側なのだろうか。あまりに身近になってしまったものと上手に付き合うのは、なかなか難しいようである。=朝日新聞2021年3月24日掲載