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【谷原店長のオススメ】災害大国・日本の「復興」をどう伝えていこう 真山仁『それでも、陽は昇る』

 毎年、春の便りが届き始めると、東日本大震災を振り返る記事や番組が急に増えます。今年は10年という「節目」だったこともあり、その傾向はとりわけ顕著に感じました。でも、年に1度、思いを馳せるだけで済むことでしょうか。そもそも「節目」なんてものがあるのでしょうか。モヤモヤした思いを抱いていた時、出合ったのがこの1冊です。真山仁『それでも、陽は昇る』(祥伝社)。

 真山さんの「震災3部作」完結編と位置付けられています。阪神・淡路大震災で被災し、妻子を亡くした教員・小野寺先生は、東日本大震災の後、東北の被災地の小学校に2年間、「応援教師」として赴任します。心の傷ついた子どもたちや市民に対し、小野寺先生は「我慢をし過ぎず、自らを責めない暮らし」の尊さを伝えます。ここまでが前作のあらすじです。3作目の今回、彼はその後、地元・神戸に戻り、震災を伝承するNPOの活動に心血を注ぐようになります。震災から時を経るにつれ、神戸や東北の地には、新たな課題が幾重にも積みかさなっていることを思い知るのです。

 たとえば、復興住宅の立ち退き問題。「復興」五輪という名前への違和感。専門知識もないまま「善意」で突き進むボランティア。地元を無視した産業誘致――。問題に直面するたびに、小野寺先生は、もどかしさ、苛立ちを覚えます。そして最終章では「3.11」から10年を経た2021年4月、つまり今月、小野寺先生が自らの使命を問い、ひとつの答えを出すまでを描いています。

 著者の真山さんは、1995年1月17日、神戸のご自宅で被災されたそうです。新聞記者を経て作家に転身されたご自身も、自問自答を繰り返しつつ、震災と向き合い続けておられることが、3作品からひしひし伝わってきます。特に今作は「未来に向け語り継ぐものとは何か」という、重いテーマに向き合っています。小野寺先生とは、真山さんご自身なのかも知れません。自身が再生し、神戸に向き合わなければ。だから小野寺先生は、赴任先の東北から神戸に再び戻るのです。

 「阪神」が起きた1995年は、僕にとっては役者としてデビューした年でした。阪神高速道路が倒れ、火の手が上がる街並みの映像をブラウン管ごしに見つめながら、現実感のあまりのなさに言葉を失いました。東日本大震災の発生の瞬間は、仕事の合間でお弁当を食べている最中でした。楽屋の姿見が倒れそうになるのを押さえ、テレビを慌ててつけ、あの津波の映像を、ただ見つめ続けていました。津波から逃げた人。家族を捜しに行き、呑み込まれてしまった人。ひるがえって僕はといえば、かつて感じたことのない揺れに恐怖を覚えながらも、無事でした。身内の不幸もありませんでした。

 死者・行方不明者、関連死を含め2万2192人が犠牲となったこの大震災について、「傍観者」の僕に何が言えるのか。何をすべきなのか。本を閉じてから長らく、考え続けました。(東京に住み、電力の恵みを享受してきた一員としては、福島の甚大な事故を経た今、「傍観者」であると言い切ることは乱暴ではあります。自分や家族の身に死者・けが人がいなかったという意味で、「傍観者」という表現を用いることを、ここに記します)

 小野寺先生が苦しみ悩んでいること、それは、「どうやって過去の地震と向き合えば良いのか」。小野寺先生自身も家族を亡くしています。震災を伝承するNPOの仕事を始める小野寺先生に対し、かつて「阪神」の語り部活動をしていた元・同僚が、こう語る場面があります。彼はもう、語り部活動を辞めてしまったといいます。

 「やればやるほど、虚しくなるんや」
 「いずれにしても、偉そうに伝承者なんて肩書きを上げんことやな」

 頭のなかにずっと言葉が引っ掛かり、悶々としました。彼の虚しさに思いを馳せつつも、震災が起こり、今も苦しみ続けている人がいること自体は、断じて風化させてはいけない。言葉にして、語り継いでいかなければ、今、苦しんでいる人たちの痛み、辛さは報われない。

 災害は、この国では毎年のように起こります。離れた地方に住むから被災者じゃない。あの頃は生まれていなかったから被災者ではない。「そんなふうに線を引いてはいけない」と僕は強く思います。たとえ「傍観者」であろうとも、彼らに思いを寄せたい。春から報道に携わる仕事を始めた僕にとっては、「傍観者」という言葉にはとりわけ重い意味があります。被災者から「お前に、何が分かるんだ」とのお怒りを買うこともあるでしょう。「親戚も死んでいない、家も潰れていないお前に何が分かるのか」と。

 でも、この国に住んでいる以上、災害は毎年どこかで起こり、誰もが「当事者」になり得ます。明日は我が身、お互いさま。能動的に、災害の歴史や社会課題についてアンテナを広げながら、咀嚼し、「何でなんだろう」って、問い掛け続けたい。「傍観者」だからこそ届けられる情報があるかも知れません。「傍観者」「当事者」双方の視点を持ち、自分自身に起こったこととして寄り添いたい。

 この本では「復興」というテーマをめぐり、さまざまな分断が起こります。大型ショッピングセンターの誘致、地域振興策などをめぐり、地元の人同士、行政、国と地方など意見対立が描かれます。

 とりわけ象徴的なシーンがあります。「還暦以上には何も言わせない」として、地域復興の中心的人物の若者がプランを強行しようとし、猛烈な反発をくらいます。「未来の主役は若者」。たしかにそうかも知れませんが、その「主役」のバトンを渡す行為は、これまで頑張ってきた高齢者のほうから、あくまで主体的に、若い世代に受け継ぐのが筋です。高齢者を排除する行動をとっていては、地域社会を成し得ません。気を遣い合う、忖度の求められる日本社会は、時に息苦しい。けれど、そこに住む市民が「今日も1日、良い日だったね。明日も楽しみだね」と、和気あいあいと話せる空気をつくることが、「復興」のうえで最も強く求められていることであると僕は思います。

 朝の報道ワイドショー番組を始めてみて特に思うのは、「分断の理由を探し続けていたら、キリがない」ということです。人間が、社会性をもった動物であることの大きな理由は、生き物としては弱いため、皆でまとまっていかなければ生きていけないからです。「僕たちは正しい」と声高に叫ぶことを一旦やめ、相手を慮って、理解したい。表面上の事象をあげつらって攻撃せずに、「なぜ彼らはこういう考えなのか」を考える一呼吸の時間を取りたい。理由や背景を知れば、理解はできなくとも、受け止められるはず。そんな寛容さを保つことが、数々の災害を経た日本に生きる私たちこそ、とりわけ疫禍に苦しめられている今だからこそ、ほんとうに求められていると僕は思います。

 真山さんの震災3部作の前作『そして、星の輝く夜がくる』『海は見えるか』には、「悲しみ、苦しみを乗り越え、未来を見つけろ」との明確な意思があります。今作は、葛藤と、今後を見据える新たな視座が加わり、真山さんご自身が苦労し、悩みに悩み抜いて書かれた1冊だということが、あらためてわかります。3冊を通読することで、周囲の人々の奮闘、小野寺先生自身の成長、そして震災の軌跡をたどることができます。(構成・加賀直樹)