舞台は、「自由死」が合法となった近未来の日本。母子家庭で育った29歳の石川朔也(さくや)は、ロスジェネ世代の母親から自由死を望んでいると打ちあけられ、ショックを受ける。母は結局、不慮の事故に遭い命を落とすが、口にした死への思いは本心だったのか、それとも低収入で暮らす息子の負担を減らすためだったのか――。悩んだ朔也は、母親のAI(人工知能)と向き合うことを決める。
物語の着想は、2児の父親でもある自らが「死の一瞬前」を想像したことがきっかけだった。生殖医療が発達する一方で、「死は偶然任せで予定が立てられない。たとえば、子どもが近くにいないときに自分が救急車で運ばれて、孤独のなかで死んでいくのが本当に幸福なのか」。そこから、「自分の死ぬタイミングを決めることは、人間に許されるのか」という哲学的な問いが浮かんだという。
その問いの前提として小説が描き出すのは、貧富の差が途方もなく拡大した、文明衰退期の風景だ。社会は〈うまくいっている世界と、いっていない世界〉に二分され、どちらの家庭に生まれるかで運命論的なまでに人間の生き方が決まってしまう。その結果、〈心の持ちよう主義〉という考え方が流行し、人々は仮想現実のなかに居場所や安らぎを求めるようになる。
「社会で生きていくのが苦しいときに、仮想空間とか疑似的なものに満たされて生きる人たちのことは否定できない」。だが、物語が進むうちに浮き彫りとなるのは、生きていた母とAIの〈母〉とのちがいに戸惑う息子の姿だ。
「アポリア(行き詰まり)のない小説は文学として書く意味がないと思うんです。どこかにアポリアを内在させていて、その矛盾に向かって言葉が熱を帯びていくのが文学じゃないか」
一方で、本作を書きながら考えたのは、「小説を書く人間の根源的な矛盾」についてだったという。
「芸術が心の慰めになって、人が何とか生きていけると感じられたらいいなと思って小説を書きつつ、それで現実をやり過ごせてしまうと、激しい怒りとともに社会を変えようとするパトスみたいなものが和らいでしまうんじゃないか」
それではむしろ、格差にあぐらをかく者にとって都合がいい。「じゃあ、小説家は読者を社会運動へと向かわせるために書くのかというと、そうでもない」。そのあいだで揺らぎ、思考をつづける。小説が帯びる高い批評性は、その過程で必然的に生まれてくる。
「文学は孤立した作家が特定の時代と直面して何かを考えるということではなくて、数十年、百年、千年単位の時間のなかで『いま起きている出来事』を考えることだと思う。パンデミックになってカミュの『ペスト』が読まれたように、読者が文学に期待しているのも、そういうタイムスケールの思考ですから」
生きにくさを感じていた10代の頃、「感受性を摩耗させて鈍感になるのはむずかしかった。そういう人間が唯一、生きていく可能性があるとしたら、知的になることしかないと思った」と語る。「僕の場合は、それが読書だった」とも。
「トーマス・マンにせよドストエフスキーにせよ三島由紀夫にせよ、思考することが僕にとっては自分の状況を克服していく上で、すごく大きな意味を持った。それが批評性になっているんだと思います」(山崎聡)=朝日新聞2021年6月2日掲載