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Riverside Reading Clubが「救済」をテーマにおしゃべり 暴力と反暴力のはざまで

>4人が「読んで救われた本」は? 【前編】はこちら

田中遵聖「主は偕にあり 田中遵聖説教集」/田中小実昌「アメン父」「ポロポロ」

堀:手前味噌で恐縮なんですが、一昨年『主は偕にあり 田中遵聖説教集』という本を復刊したんですよ。田中遵聖は牧師で、どこか大きな教団に属していたのではなく、広島の山奥でひっそりと活動していたので、彼の説教集は長らく私家版しか出てなくて。最初にこの本を教えてくれたのは、写真家の神藏美子さんです。最初に読んだ時は「文章は面白いし、独特だけど、復刊してもどのくらい読まれるかな」と思いました。でもある時この本や聖書について話してたら、神藏さんが「私はクリスチャンになるつもりはないけど、そこには何か本当のことがあると思う」と言ったんです。その言葉にガツンときて。ちなみに田中遵聖の息子さんは田中小実昌という作家なんです。

堀真悟=1989年生まれ。新教出版社の編集者。月刊誌「福音と世界」のほか『ヒップホップ・レザレクション──ラップ・ミュージックとキリスト教』『ヒップホップ・アナムネーシス──ラップ・ミュージックの救済』などの編集に携わっている

ikm:ハードボイルドの翻訳とか映画について書いてる人ですよね?

堀:そうです。あと、ひたすらバスに乗っている話とか(笑)。神藏さんに紹介してもらってから、小実昌さんの本も少しずつ読むようになりました。ikmさんのおっしゃる通りエンタメにも通じた人なんですが、父・遵聖のことも書いてるんですよ。長編だと『アメン父』、短編だと「ポロポロ」や「十字架」などが有名ですが、おそらく小実昌さんの中にはずっと父のことがあった。遵聖はアメリカで人間の理性を突き詰めてキリスト教の考え方を深める自由主義神学を学んだんです。でも彼は学べば学ぶほど苦しくなっていったそうです。そして帰国後、広島・呉の山奥の日本家屋に礼拝堂を建てます。遵聖に惹かれた人たちが来て礼拝するんですが、そこには、普通ならあるはずの十字架がなかった。

しかも礼拝中とかにテンションが上がってくるとみんな、「ポロポロポロポロ……」と言い出すらしいんですよ(笑)。さらに高まると飛び跳ねて蛍光灯を割っちゃったり。それってキリスト教の言葉で言えば「聖霊が降る」みたいなことなんでしょうけど、小実昌さんはそう言わない。実際に「聖霊」と言った直後に「なんて言葉を自分は使えない」と打ち消す。彼は文章のフロウがすごくて。人によってはダラダラ書いてるようにも感じるかもしれないけど、音読すると気持ち良い。

――堀さんはいつ頃から神藏さんの「本当のことがあると思う」という感覚を理解し始めたんですか?

堀:理解したというか、遵聖や小実昌さんの著書を少しずつ読む中で、自分としてもそれを追いかけるようになりました。遵聖は「十字架は奪ってくる」と言ってたんです。つまり十字架を自分の所有物として振りかざすのではなく、むしろ自分の持ってる知識や、体を押さえつけてる暗黙の了解や規範みたいなものが取り払われていくこと。あるいは、神と向き合う中で、自分というものの定義自体が変わってしまうこと。それって小実昌の文章が音読すると気持ち良いという感覚とか、遵聖の礼拝中に「ポロポロ」と言ってしまう肉体性にも通じているのかなって。キリスト教を頭で考えるのではなく、体で感じようとしてた。遵聖、そして小実昌が伝えようとした感覚はキリスト教で最も重要なことだと僕は考えています。

酒井隆史「暴力の哲学」/「水滸伝」

五井:無意識のうちに自分を縛るものを取り払う、というお話が出ましたが、僕は同じことが暴力の問題にも言えると思うんです。暴力って一般的には忌避されているものじゃないですか。それは当然でもあるんだけど、でもそこに束縛をはねのける力というか、ある種の解放性があるのも間違いない。こういう暴力の両義性は、ストリートと切り離せないものだし、フィクションにしろ、ドキュメンタリーにしろ、作品としてリアルな人間の生を描くときにも避けては通れないものだと思う。頭からそれを否定するんじゃなくて、改めて暴力とは何か考えてみようっていうときに、指針になるのが酒井隆史さんの『暴力の哲学』です。

五井健太郎=1984年生まれ。ライター、翻訳家、シュルレアリスム研究。マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち:うつ病、憑在論、失われた未来』、ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』の翻訳に携わる。東北芸術工科大学の非常勤講師

ikm:ちなみに俺はこれが出た当時買ったけど、いまだに積んであります(笑)。

五井:この本に書かれているのは、「暴力は良くない」と反射的に思ってしまうこと自体が歴史的に作られたものなんだということ。権力の側が作り出してきたそういう通念を著者は、社会学者として、歴史家として丁寧に解きほぐしていきます。公民権運動の歴史をたどりながら、さっき言ったような暴力の解放的な面に焦点が当てられつつ、とはいえそれを一方的に称揚するわけでもなく、あくまでその両義性と向き合いながら考えられている。「仁義なき戦い」とか「バトル・ロワイヤル」なんかも分析の対象になっていて、すごく面白い。

ikm:暴力の解放感って、ハードコアパンクにも通じるかもしれないですよね。

五井:僕も念頭にありました。とにかく今、世間的にどんどん暴力を忌避する風潮になってますよね。でも改めて暴力の解放性と向き合わないと、いろいろうまくいかないような気がするんです。

Lil Mercy:さっきの『夢へのレクイエム』じゃないけど、暴力って身近にありますからね。街にも常に存在してる。特に最近はみんな鬱屈としてるから。この間、池袋で友達といたら、割とさらっと6人くらいに絡まれたんですよ。暴力はそれくらい身近にあって、いつでも爆発する準備ができてる。そんな空間はそこら中にあるような気がします。

堀:暴力がないとされる漂白された場所なんて、むしろ怖いですよね。

Lil Mercy:あと単純な暴力への批判は、何が暴力かをわからなくしてしまう危険性もある。自分が気づかずに暴力を行使してしまっていたり。

ikm:ネット上の暴力なんてまさにそうですよね。

Lil Mercy:村八分とかも、する側は暴力だと思ってない可能性もありますし。

――五井さんが『水滸伝』も持ってきているのは暴力の解放性の流れですか?

五井:そうですね。『水滸伝』は暴力の解放性と凄惨さ、その両義性がまるごとエンタメになっているような感じで、すごく好きな作品ですね。これは岩波少年文庫から出てる施耐庵を作者だとみなした「七十回本」というエディット。本来は120回(章)までありますが、僕はこの70回で終わらせちゃうバージョンが一番好きです。列伝形式とか言うんですが、キャラクターが出そろって活躍したところで終わる。マイクリレーみたいな(笑)。

ikm:歴史や神話って基本的に暴力の話ですよね。

五井:『水滸伝』は民衆たちの間で語られてきた講談を編集したものなんですけど、完全なるフィクションでもないんですよ。朝廷に刃向かった実在の義賊がいるんだけど、彼らの伝説がストリートで語り継がれていくうちに、「もっとこうしたらいいんじゃないか」みたいな感じで、集団的に膨れ上がっていく。それでできたのが、騙されて賊に落ちちゃった人とか、誰かを助けるために誰かを殺してしまった奴みたいな、社会の規範から1回外れてしまった人たちが、梁山泊って場所に結集して生きていく話で。民衆的な夢がかたちになったものだけど、だからこそリアルな気もするし、暴力の両義性のその先を考えるヒントがある気もしますね。

シモーヌ・ヴェイユ「シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー」

堀:僕はさっき遵聖と小実昌の紹介で、「キリスト教を頭で考えるのではなく、体で感じようとしてた」と言いましたが、その意味でも自分的にマスト・オブ・マストな作家がシモンヌ・ヴェイヌです。生前は不遇で、死後カミュが彼女の草稿を刊行して評価されました。

――ヴェイユはどんな作家なのですか?

堀:彼女は裕福な家に生まれて、フランスで労働運動に関わったり、反ナチス運動もやってました。でもそういう自分の在り方に疑問を感じて工場労働を始めるんです。でもスキルがないからボロボロに使い潰されてしまう。その時の経験を『工場日記』という本に残しています。

Lil Mercy:その本、(ラッパーの)METAFLOWERに「一番好きな本です」ってこの前もらいましたね。めちゃくちゃ読み込んでる感じでした。

堀:その情報はアガります! 彼女は工場労働を経験して、人間性をすり潰す巨大な力がもたらす不幸を、むしろどう受け入れるかを考えるようになるんです。でも受け入れてしまったら、それこそ『夢へのレクイエム』のような状態になるかもしれない。恐ろしいけど、自分を開いていく。そういうことを考えた哲学者でした。

Lil Mercy:普通は絶望的な状況にいても自分では認められないことが多いですよね。だから余計に悪い方向にハマっていく。

堀:彼女は洗礼を受けなかったけど、キリスト教の研究にのめりこみました。印象的なのは彼女の隣人愛観です。彼女は「隣人愛と同情は違う」と言ってる。同情は溺れてる人を頭の上からぶん殴って沈めるようなことだけど、隣人愛はなかば物のような状態になった人に対して、自分も物のような状態になって関わること。いわば、自分とその人のあり方を移し替えることで、その人を回復させる超自然的なもの。イエスはそれを実践した人だ、と。もっともヴェイユは、世の中で起きてるヤバいことを手付かずにして内省にこもったわけじゃなくて。現実に働く暴力と、それを超えたところにある力ならざる力の間で、自分はどうあるべきかを考えた人なんです。これは、教条的な非暴力とは異なる別の選択肢、反暴力を模索した『暴力の哲学』にも通じる部分があると思う。

トミー・オレンジ「ゼアゼア」

ikm:俺は今日、これを絶対に紹介したくて。『ゼアゼア』という去年出た本です。オークランドで暮らす都市インディアンの群像劇なんですけど、実は今、インディアンって8割くらいが都市にいるらしくて。政府の同化政策の影響でリザベーション(保留地)から出ざるえなくなって。それも政府が補助金をカットするためだったりもするみたいなんだけど。

Lil Mercy:そうなんだ。

ikm:この小説の中にすごく好きな話があって。胎児性アルコール症候群というのがあるんですけど、お母さんが妊娠中に飲酒をしてしまうと、生まれてくる子どもの身体に外見も含めて影響が出てしまうという。その胎児性アルコール症候群で周りにうまく適応できない少年が、ある日、バスで前の席に誰かが忘れていったiPodを見つけて聴いてみると、MF Doomの曲しか入ってない(笑)。だけど、その中の1曲のリリックに救われるという話で。本の中では曲名は書かれてないけど、翻訳では「穴開きのはぐれた靴下よりソウルを(Got more soul than a sock with a hole)」となっているから、MF Doom名義ではなく、Madvillain(MF Doomとプロデューサー・Madlibのユニット)の「Rhinestone Cowboy」だと思うんですけど、そのシーンが本当に最高なんですよ。インディアンがアメリカのカルチャーのヒップホップに救われるっていうのもそうだし、翻訳もそれこそラップみたいにフロウしていて完全に最高で。そこだけでも読んでみてほしいというか、それも含めてこれは読んだほうがいいと思います。

五井:これは相当面白そうですね。

ikm:インディアンって黒人と同じような状況なんですよね。アルコール中毒、ドラッグ中毒、母子家庭、DV、自殺率の高さとか。『ゼアゼア』の帯に「現代アメリカ先住民文学の最前線にして最高傑作!」と書かれてるけど、つまり先住民文学って“黒人文学”と一緒だと思うんです。この本の中には「いまあるのは保留地の物語と、更新されてない歴史の教科書の最低な話だけだから。もう一つの物語を始めてもいいと思う」みたいなセリフもある。しかもCNNのコメンテーターが「アメリカ文化の中に先住民の文化はない」とか言ってて。極端な話、こういう発言って侵略すらもなかったことにするってことですよね。

だからこそ『ゼアゼア』のように自分たちで物語ることが重要だと思いました。それは黒人文学もしてきたこと。そういう意味でも去年は『フライデー・ブラック』のことをよく考えていたんですけど、今年はこの本のことをずっと考えそうです。翻訳をした加藤有佳織さんは大学で准教授をしている方で、たぶんこの本が初めての翻訳だと思んですけど、本当に素晴らしい。ここ最近読んだ中で一番かっこいい翻訳だった。もっといっぱい話したいことはあるけど、これはみんなに読んでもらいたいので、このへんにしときます(笑)。

五井:インディアンの人たちが置かれてる状況が、広い目で見ると被差別の黒人の人たちが置かれる状況と同じだ、っていう視点は大事だと思います。マニュエル・ヤンさんという友人が『ヒップホップ・アナムネーシス』に寄せた原稿で、アメリカの権力者は人種と階級を結びつけることで統治してきたと書いてて。階級関係が人種的なアイデンティティにすり替えられて、「カネがないのはおれが/あいつが○○人だからだ」って思い込まされているんだ、と。権力の側が上から人種間の対立を煽って、分断しながら統治してる。

そういう状況に介入するものとして、マニュエルさんは、(アメリカのミュージシャン)アイス・Tの「聞けブラザーたち、確認しろ。メキシコ人は黒人、ジャマイカ人は黒人、イラン人は黒人、東洋人は黒人……」みたいなラインを引用していて。そこでいう黒人性っていうのは、いわゆるブラックの人たちだけじゃなく、資本主義的な統治の構造で分断されてきたあらゆる人たちに改めて同じ一つの名前を与えて、本当の敵をはっきりさせるためのものなんだ、と。『ゼアゼア』に描かれる救いも、こういう話と繋がってる気がします。統治が語るそれとは違う物語を生きる、っていうか。

「来たるべき蜂起」翻訳委員会、ティクーン「反―装置論」

五井:最後に紹介したいのは、ティクーンっていうフランスの思想家のグループの書いた『反―装置論』です。思想家っていうと硬いけど、音楽のグループみたいなノリもある人たちで。誰が書いているかを意図的にはっきりさせず、チーム名だけ明かして、発表の場もZINEみたいな媒体に絞る。社会の外側に追いやられているような力と響き合うために、アンダーグラウンドに徹するようなスタイルを持っていた。彼らの話はすごく面白くて、今の私たちは「装置」に支配されてるっていうんです。この「装置」っていうのは、「これもできる」「あれもできる」ってかたちで、人に可能性を与える。一見いいことみたいだけど、「それ以外は見るな、考えるな」ということでもあって。選択肢が与えられることで、逆に視野が狭められている。そういう構造を彼らは「装置」と呼んでいるんです。だから支配される側は支配されてることに気づかない。

ikm:与えるって体でそれ以外を奪ってる、ってことですね。

五井:まさにそうで、僕らは可能な選択肢から選んで、よかれと思っていろいろやってるときでも、実は支配されている場合がある。そこから出るためには可能性の外に出なきゃいけない。たとえ絶対に不可能に思えることであっても、そこに賭けて何かに向かわないと、何も変えることはできないということですね。

ikm:提示されているものから選択するだけじゃなくて、選択肢をゲットしていく、新しい選択肢も作っていくことが重要ってことですよね。救済というと他人から与えられるもののような気もしてしまうけど、自分から可能性、選択肢を広げていくことで“救われる”こともあるはず、この連載のタイトルにもなっているけど、本は選択肢で、そのためのヒントを与えてくれるものだと思ってます。

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