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高村光太郎「智恵子抄」 妻亡き後の絶望と諦念に貫かれた美しさ

たかむら・こうたろう(1883~1956)。詩人、彫刻家

平田オリザが読む

 晩年の代表作『典型』の名の通り、高村光太郎は、まさに近代日本のある種の典型のような人物だった。

 上野の西郷像を作った高村光雲を父にもち、若くから将来を嘱望され一九○六年、二三歳で渡米、三年間を米国、欧州で過ごす。帰国後は日本社会や日本の美術界の閉鎖性に反感を持ち、放蕩(ほうとう)の生活を送る。しかし三一歳で長沼智恵子と結婚、これを機に生活も健全なものとなり、同年、詩集『道程』を発表して一躍文壇に名前をはせた。その後の二十数年は、本業の彫塑(ちょうそ)を中心に活動する。

 智恵子の死の三年後の一九四一年『智恵子抄』を刊行、ベストセラーとなる。一方、心の空白を埋めるかのように国粋主義、戦争賛美の詩を書き始めた。さらに戦後は、敬愛した宮沢賢治の故郷花巻に蟄居(ちっきょ)し、悔恨と反省の詩を書き続ける。

 二一世紀を生きる私たちが、高村の変遷を「西洋かぶれが急にネトウヨになった」と笑うことはたやすい。しかし彼の生涯はまさに、十九世紀末に産声を上げた近代日本が歩んできた道程そのままではないか。あるいは、近代日本文学の変遷そのままと言っても過言ではない。

 若くして海外を見た高村にとって、西洋は巨大な壁であった。パリのノートルダム大聖堂の荘厳さと、自分の小ささを描いた長編詩「雨にうたるるカテドラル」を発表したのは、帰国から十年以上経った一九二一年。第一次世界大戦が終わり、日本全体が大国の仲間入りをしたと浮かれていた時代である。

 「智恵子は見えないものを見、聞(きこ)えないものを聞く」(「値〈あ〉ひがたき智恵子」より)
 高村は、あくまで理性の人であった。彼は自分が宮沢賢治にはなれないことを自覚していたし、まして精神を病んだ智恵子のようになれないことも分かっていた。『智恵子抄』が美しいのは、その絶望が全編を貫いているからだ。しかしその絶望と諦念(ていねん)は半面、彼を戦争詩へと向かわせた。人間はかくも弱い。=朝日新聞2021年7月17日掲載