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「最後の挨拶」書評 父の記憶を書きつけ喪失に抗う

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2021年09月11日
最後の挨拶 著者:小林 エリカ 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065240601
発売⽇: 2021/07/07
サイズ: 20cm/184p

「最後の挨拶」 [著]小林エリカ

 精神科医であり、シャーロック・ホームズ研究者として妻と共同で翻訳を手掛けた小林司。その娘である著者は、亡き父をモデルに、ファミリーヒストリー小説を紡いだ。本作には、どんなに細部を積み上げても総体には程遠いというジレンマと、それでも様々な記憶の断片を書きつけたならそれらは霧消しないとの期待が、ないまぜとなっている。
 物語は遠い過去と現在に近い時間を行き来して進む。旧制四高時代、16歳で敗戦を迎えた父は、戦前教育への反発からかエスペラントを学ぶ。3人の娘を得た最初の結婚ののち、エスペラントがきっかけで知り合った女性と再婚、生まれたのが本作の語り手のリブロだ。本が増殖した雑然とした家で四姉妹は育つ。
 事態が変わるのは、2002年にホームズ全集が完結したその数年後。父は脳内出血により生死の境をさまよう。意識の混濁。麻痺(まひ)の残る身体とリハビリ。長い入院期間を経て自宅に戻るも、10年に世を去るのだ。
 「その目に、身体に、脳に、刻まれた、全てのものたちが、失われてゆく」
 ただし本作は私的な喪失感に留まらず、社会と接続する。父の死の翌年に起きた大地震による途方もない数の死の出現は、リブロに「刻まれたものたちが、侵食され、破壊される。過去が失われてゆく」という感慨を抱かせる。脳内を侵した血と、濁流の津波のイメージが交錯するのだ。それはホームズの生みの親であるドイルの戦争体験とも遠くつながっていく。
 奪われるばかりの理不尽に対抗する力となるのは何か。リブロが幼い日に父の膝(ひざ)の上で見た翻訳という魔術的な作業、ひいては執筆の営みは、そのひとつだと作品は示唆する。死者の書き残したものは、生きる者の中で輝き続けるのだと。
 断章形式や余白とリフレインの多い文体が、心地よいリズムを生み出す。美術家でもある(カバー写真も彼女の手による)著者らしさのつまった作品だ。
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こばやし・えりか 1978年生まれ。作家、マンガ家。著書に『マダム・キュリーと朝食を』など。