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ポプラ社・吉川健二郎さんをつくった「思い出トランプ」 脚本と小説、両極を自在に

 まったくモノにならなかったが、かつて脚本家を目指していたことがあった。

 片端から有名な脚本家の脚本を読み漁(あさ)っていた頃、向田邦子の脚本(「阿修羅のごとく」だったと思う)も自然に手に取った。大げさではなく、一行めから釘づけになった。

 テンポよくやりとりされる小気味のいい会話、その中で時折吐かれるささやかな“毒”は、家族や夫婦、あらゆる人間関係の本質を突いていた。頭の中で克明にドラマの舞台が描けるほど洗練されたト書きには、一切の無駄がなかった。完成度の高さに唸(うな)ると同時に、なぜか「この人の小説を読んでみたい」と思った。

 向田邦子は、生涯で数えるほどしか小説を出していない。そのうちの一作が、直木賞受賞対象となった短編三作を収録した『思い出トランプ』である。

 電車の吊(つ)り革に揺られている妊婦の達子は、目の前の座席で眠りこけている家族づれの夫を見て驚く。十年ほど前に因縁のあった魚屋のカッちゃんだった(「犬小屋」)。

 収められた十三編に、凹凸の激しい物語は一遍もない。だが読めば気持ちに波風が立つ。生々しい表現で綴(つづ)られる人間模様の中に、諦観(ていかん)とは違った、向田邦子の家族観や人生観を見た思いがした。

 編集者になってから、幾人もの脚本家に小説の執筆を依頼した。その都度実感したのは、脚本と小説はまったく別物であることだ。一方は文章を削(そ)ぐ。一方はそれを膨らませる。その両極を自在に泳いだ向田邦子の凄(すご)みを、改めて思う。=朝日新聞2021年9月15日掲載

 ◇よしかわ・けんじろう 74年生まれ。ポプラ社・文芸編集部。