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アートディレクター細山田光宣さん「アナログとデジタルの垣根がなくなっている」 雑誌と本のデザインのこれから

細山田光宣さん=西田香織撮影

渋谷の住宅街に2棟ある事務所

 細山田デザイン事務所で、まず目を引くのはオフィスだ。東京大学駒場キャンパスにも近い、渋谷区・富ヶ谷の閑静な住宅街に一棟の事務所あり、そこからすぐ角を曲がった山手通り沿いにカフェ兼社員食堂がある。銀座のオフィスを経て、あるときから「路面店」になったという。

 「デザイン事務所は雑居ビルやマンションの1室にオフィスがあることが多いですが、そうすると街からデザイン事務所の存在が消えるんです。僕らも銀座のときは7階だったんですけど、やっぱり地域に根差す感覚じゃなかったんですね」

 「街の看板屋のように、本来はデザイン会社も、誰でもノックできる存在じゃなくてはいけないと思うんですよ。今はリモートワークも広がってますけど、デザイナーは拠点があって、そこで何をしていくかを考えるべきなんじゃないかと。20年後、30年後もいる前提で、『あそこデザイン事務所だよね』といわれる存在になりたかった」

 銀座と富ヶ谷の2拠点を始めてしばらく経った頃、東日本大震災が起きた。銀座のビルは大きく揺れ、スタッフは「もうあそこには通いたくない」と言い出し、みんなが富ヶ谷で働くように。手狭になり、2棟目にオフィスも備えたカフェ兼社員食堂を建てたのだという。

細山田デザイン事務所の本たち。左は、社員食堂のまかないをまとめた一冊。事務所1Fのキッチンで料理人が作る夕食を、大きなテーブルを囲んで食べることが日課だったという。

イギリスで感じた、社会に根づくデザインの力

 細山田さんが思い描く「街のデザイン屋」は、若い頃にイギリスで過ごした日々が大きく影響している。美大を卒業後、「海外で過ごしてみたい」と今でいうギャップイヤーを取り、寮費込みで1年間67万円の大学を見つけて留学したのだ。

 「例えば、ロンドンの地下鉄。グラフィックだけ取り出しても、土産物になるぐらいアイコニックなわけです。空港も、ものすごくオーガナイズされていて綺麗だった。それを感じられたのが大きな収穫だったと思います」

 「要は、デザインが社会に根づいてた。デザインが装飾なだけではなくて、コミュニケーションにもなっていて、橋や道路と同じように、社会のインフラのひとつなんだって思ったんですね。それは、僕の今の考えにもつながっていますね」

事務所の地下にある活版スタジオ。細山田さんのデザインの原点は、小学5年生のときに出会ったレタリング。絵はうまく描けなかったが、レタリングは圧倒的に速く上手に描けた。高校のアート部では、校内から様々な依頼を受けてデザインを手がけていたそうだ。

 1989年、サッチャー首相の時代に作られたデザインミュージアムは、デザインの重要性を伝えるうえで「象徴的だった」という。

 「デザインにアート・美術品と同様の社会的価値を再定義したという意味で、これまでの概念を変えるものだと思ったのです」

 細山田さんは、日本ではまだまだデザインが社会に貢献していない、と実感したという。当時の日本はバブル期で広告至上主義を迎え、どこかで「これでいいのかな」とも感じていた。

90年代、マガジンハウスの雑誌のデザイナーに

 帰国後、広告会社を2週間で退社した細山田さんは、大学の後輩の縁でマガジンハウスの雑誌「BRUTUS」の契約デザイナーに。1980年代後半、日本は雑誌が全盛期だった。

 細山田さんは、雑誌はどうやって作られているのか探りたかった。垣間見た広告会社では、コンピューター的なデザインの手法は始まりつつあったが、広告会社が版下を作るやり方では、1カ月に1冊、150ページや200ページの雑誌は到底できないと感じたからだ。

 マガジンハウスで学んだ雑誌デザインのプロセスは、「まさにミラクル」だったという。

 「デザイナーは指定原稿というものを描いていて、自分たちで版下は作っていなかった。ただの設計図的な指定紙ではなく、写真が入るところに絵を描き、例えば紫色の文字を付けたかったら、紫色のペンで文字を書くわけです。指定紙を見れば、こういうのが作りたいとひと目でわかる。それを見て版下の部署が版下を作って、印刷の現場が製版をやっていく。このやり方は、新谷雅弘さんが確立されたんですけど、あの当時、このコミュニケーションは素晴らしかったですね」

「指定原稿を見ると、どこの編集部かすぐ分かるんですよ。例えば、『Olive』は顔を描かないけれど、『BRUTUS』や『POPEYE』は顔の目鼻立ちまでしっかり描く。『BRUTUS』は、陰影までつけて絵のうまさを競う感じでしたね」と細山田さんは笑う。

「relax」創刊と「POPEYE」リニューアル

 「『BRUTUS』は楽し過ぎて、ストレスがなかった」と振り返る細山田さん。9年に渡る「BRUTUS」を経て、「relax」の創刊にあたりアートディレクターに就任する。

 「『relax』は変な雑誌で、デジタルを先取りした内容ではあったんですけど、どこにいくのか、僕もよく分からないまま作っていたところがありました。1年ごとくらいにリニューアルするんですよ。一緒なのは名前だけで、がらんって変わっちゃうわけです(笑)。創刊も含めて、短い間に3回リニューアルしましたね」

 その後は、さらに「POPEYE」のアートディレクターとして、ファッション誌に向けて徐々に雑誌をリニューアル。まさにマガジンハウスが誇る男性誌の歴史を見てきた。

 「『POPEYE』は、本当に雑誌を変えた雑誌。デザインのやり方も、ビジュアル誌も変えた雑誌だと思うんですよね。でも90年の主流は、『Boon』や『smart』の裏原(裏原宿系)のストリートファッション。その頃の『POPEYE』は大学生向けの雑誌で、今みたいに大人も読める雑誌じゃなかった。それで、ファッションの広告を入れるためにブランドイメージを上げようってことで、編集部をあげてファッション誌まで持っていった感じです」

地下2階から2階まで吹き抜けになっているスタジオ。

ZINEの先駆け、大橋歩さんの「Arne」

 細山田さんがデザインを手がけ、イラストレーターの大橋歩さんが企画・編集・取材・撮影した「Arne」は、2000年代にインディペンデントな雑誌として注目を集めた。

 「大橋さんに、頼んでいただいて本当にうれしかったです。それこそ『平凡パンチ』の表紙を描いていた大先輩。雲の上の方のプライベートマガジンをやらせてもらえて光栄でした」

 「『Arne』は、今でいうとZINEの先駆けでしたね。僕らも新しいかたちを感じられて本当に良かった。一番最初の『Arne』は、36ページだったと思うんです。はじめ大橋さんが、A4のPR誌を持っていらして『こんな感じのを作りたい』とおっしゃったんですけど、『絶対やめたほうがいいです。値段が付かないから。B5にしましょう』と。映画のパンフはB5の48ページぐらいで700円とか1000円。それでもお客さんは買うから、そっちの考え方にしましょうと」

 事務所のカフェの店頭には、大橋さんの最新オリジナル絵本が販売されている。

 「うちと『ほぼ日』で売ってるのかな。どちらもバーコードの入っていない本なんですけど、楽しいんです。そういう本の作り方。大橋さんは作家であり編集者でもあるので、大橋さんと僕たちだけで出版できることにワクワクしました」

「書籍が雑誌化」した出版の20年

 この頃から、雑誌だけでなく書籍のデザインの仕事も多くなった。雑誌出身の細山田さんは、料理やライフスタイルなど「圧倒的にビジュアルが多い本」の依頼が多いという。同時に「この20年間で、書籍が雑誌化した」と分析する。

 「20年以上前は、雑誌をする人と書籍をする人は基本的に分かれていたと思う。だけど、書籍が雑誌化したんですよね。全然悪いことだと思いませんけど。装丁の世界観、仕事、デザイン自体が変わっていったと思います。雑誌のデザインは、ルールを作るところから始まりますが、その考え方は書籍にも使えたんです。細かいものを着地させるっていう意味では、雑誌のデザイナーは百戦錬磨なんですよ(笑)」

雑誌の「dancyu」や「山と溪谷」をはじめ、料理や実用書など様々なジャンルの本を多く手がける。

 細山田さんは、書籍の面白さは「ジャンル」と語る。「自分たちの生活に関わることは、すべてジャンルになる。いろんなものに出会えるのが本当に楽しい。著者さんや編集者が作り上げてきた最後のおいしいところをやらせてもらえる」とブックデザインの魅力を表現する。

 「例えば、うちは食だけではなくて、教育や学習参考書も実はすごく大事にしてる。子どもや幼児の本とか『こどもちゃれんじ』もやってるんですよ。2歳と3歳の違い、3歳と4歳の違いは大きい。そういう子どもに対するアプローチも楽しいし、面白いですよね」 

 「医療系も、僕らの仕事だと思ってます。情報が多くて、チラシだけでは伝えられないんですよ。ページがある冊子だと分かってもらえる。病院で配布される『ロハス・メディカル』という医療雑誌をはじめ、多くの病院の冊子や書籍も手がけています」

カフェの2階には手がけた本が並ぶ。

デザイン事務所の経営者として

 事務所のデザイナーは25人ほど。そのほとんどが雑誌と書籍の両方を手がける。これはデザイン事務所を経営するうえでも、大切な視点だという。

 「私たちエディトリアル・デザイナーは、ビジネスモデルとしては定期刊行物もやった方がいい。書籍って一冊一冊が勝負なんですよ。毎回新しいクライアントさんや著者さんなのでチャレンジング。雑誌は、同じフォーマットの上に成り立つから、手間はかかるけど新しくルールを作るストレスが少ないんですよね。そのメリハリがあるといいなと思います」

 自らを「アートディレクター」と称する細山田さん。「装丁家」との違いは何だろうか。

 「装丁家もアートディレクターだと思います。ただ、うちでも書籍は1人一冊で始めるんですけど、1人でやるのはきついとなったときは、何人かで手分けするんです。雑誌のやり方ですね。だから装丁家というよりはデザインチームだし、僕の場合は本によっては手を動かさないことが多いわけですから、アートディレクターっていうのが立ち位置です」

 「装丁的な仕事がしたい人もいる。でも、そういう人も含めて『うちは全員がチーム』と話しているんです。たとえ25、26歳のメンバーでも、場合によっては、40歳の人をスタッフにしてチームでやる。みんな『ちょっと暇だから手伝うよ』っていってくれて、素晴らしいなと思います」

本や雑誌ならではの魅力は、「ページで見せる」こと。「SNSで、本のカバーだけを紹介することに違和感がある」と細山田さんはつぶやく。

エディトリアル・デザインのこれから

 たくさんのスタッフを抱えるデザイン事務所を経営し、長らく第一線を走ってきた細山田さん。エディトリアル・デザインの将来を見つめ、いまは「あえてアナログのほうにいってる」と明かす。

 細山田さんが「アナログ」と口にしたように、なんと事務所の地下1、2階には、海外からコツコツ取り寄せてきた活版の活字や、印刷機や製本機などが並んでいる。

 「メインの機械があるのが地下2階で、地下1階はタイプルームで、活字があって組版をする場所です。そこで組版して下に降りていく。下には1960年代製のヴァンダークックという印刷機があるんです」

 1階にはリソグラフの印刷機もある。リソグラフとは、理想科学工業が独自の技術で製造する業務用印刷機。かつて一世を風靡したプリントゴッコは、この製版技術を応用して一般向けに発売されたものだ。細山田さんによると、2000枚はオフセットと同等のスピードで、1枚当たりコピーの20分の1ほどのコストで印刷でき、日本の教育現場やスーパーで重宝されているという。

 「実は海外では、多くのクリエイターが『これって面白いよね』となってるんですよ。みんなリソグラフ大好きですよ。レタープレスやリソグラフだったら、自分で印刷までできちゃうわけです。こういうハンドメイドの文化っていいなと」

「製本機と断裁機があるので中綴じの製本で本も作れます。マイクロパブリッシングもできるようになりました」と細山田さん。

 「僕が大切だと思っているのは、将来をイメージすること。例えば、雑誌がこれからも同じような形態でいくのかはわからない。これから雑誌はデジタル主体になるものもあれば、小さなコミュニティー向けの紙媒体として進化していくものもあるかもしれない。どんな型でも仕事として面白い。そう思えるように準備していきたいんですよ」

 「要は、30年たっても40年たっても本を作りたいし、自分が体験したようにページものが面白いってことを一般の人にも知ってもらいたい。そのために何したらいいか、それしか考えてないかもしれない。そうやって自分の活動する場所を切り拓くのが好きなんですかね」

イギリスでブックバインディングの先生をしているラベル・ゾラーさんがスタジオでワークショップをしてくれたときに作ったノート。「機械を使わなくても、糸かがりで綴じれば、立派に本になります」と細山田さん。

 出版社の雑誌も、ひとりの思いから生まれるマイクロパブリッシングも、ページをめくる紙ならではの魅力は変わらない。細山田さんはアートディレクターとして、そして「街のデザイン屋」として、あらゆる人との本づくりをとことん楽しむ人だった。