1. HOME
  2. インタビュー
  3. 作家の読書道
  4. 浜口倫太郎さんの読んできた本たち 小説家になれることを疑ってなかった

浜口倫太郎さんの読んできた本たち 小説家になれることを疑ってなかった

>「作家の読書道」のバックナンバーは「WEB本の雑誌」で

星新一作品との出合い

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

 幼稚園の頃に読んだ『アンパンマン』ですね。まだ初期のアンパンマンで、今のアニメの姿じゃなくて等身大だったんです。アンパンをあげる時も身を削っている感じで、リアルでちょっと怖かった。それで憶えています。

――本をよく読む子どもでしたか。

 うちの母親が読書家だったので、家にいっぱい本はあったんです。森村誠一さんとか松本清張さんとか。だから本を読む習慣は縁遠いものじゃなかったです。ただ、僕は4人きょうだいの一番上だったんですよ。下がいっぱいいるんで親も僕には手が回らない。だから自分で適当に選んで読んでいました。『一休さん』とか『吉四六さん』といったトンチ系の話が好きでしたね。ちょっとひねくれてたので、普通の童話とかはあんまり読んでなかった。あとから思うと、『吉四六さん』は落語ネタが結構入っている。「まんじゅうこわい」とかを読んで、なんて頭がいいんだろう、って。オチの一言もよくて、子ども心にこれは面白いと思ってました。

――小学校に入ってからの読書生活は広がりました?

 広がりました。一番人生を変えたのが、星新一先生です。たしか小学校3年生の時にはじめて読みました。こんな小説があるんやと思いましたね。教科書に「おみやげ」が載っていたんだと思います。宇宙人が前史時代の地球にやってきて、ロケットの設計図や若返りの薬の作り方なんかをカプセルに詰めて、おみやげとして置いていく。その後、人類が生まれるんだけど......という話。それが面白くて、図書館に行ったら星先生の本がたくさんあったので、ドハマりしました。もう、暗記するくらい読んでました。「ボッコちゃん」「おーい でてこーい」「午後の恐竜」といった有名どころはもちろん全部読みましたし、「オアシス」なんかもむっちゃ面白かった。宇宙船で旅してて水がなくなって困っていたら、オアシスのある星を見つけてみんな喜ぶんだけれど......という。絶頂からの絶望への落差って星作品の魅力ですけど、それってショートショートだからできるんですよね。長篇小説であんなオチやったら成立しないと思いますが、ショートショートでハラハラドキドキさせてから急速であのオチっていうのがすごくて。最後の絵もいいんですね。「ボッコちゃん」なんかも絵がすごくよかった。

――真鍋博さんのイラストですよね。

 そうですね。星作品はイラストの魅力もありました。

――テレビや映画などは好きでしたか。

 関西の人間なんで、テレビは吉本新喜劇のお笑いを見ていました。小学生の時に「4時ですよ~だ」が始まるんですよ。僕はそれでダウンタウンを知りました。学校のみんなはまだドリフの話とかしてたから、僕はちょっとひねていたんですよね。そうやって自分の好きなお笑いを見つけていたし、星新一作品もユーモアとウィットが強いから、それで僕の中でお笑いと小説は密接に結びついていきました。

 星さんには本当に影響を受けました。エリートしかなれない宇宙飛行士を目指して奮闘してきた主人公がようやくもうすぐなれる、という時に......という「空への門」を読んで、なんて残酷なんやって。あれを読んだ時、一生できる仕事を選ぼうと思って、作家になりたいって思いました。

――ああ、その頃すでに作家になりたいと思ったんですね。

 星さんの後は筒井康隆さんに走りました。『農協月へ行く』とか、星さんとまったく違った、スラップスティックというかナンセンスなんですよね。星作品はあらかじめ考えて完璧に設計されているけれど、筒井作品は入り口だけ考えてあとははちゃめちゃという感じで。それがすごく面白かった。

 それで星さんと筒井さんのエッセイも読むようになったんですが、星さんの『きまぐれ学問所』で小説の作り方を学びました。アイデアの作り方について、異質なもの同士を組み合わせると書いている。もともとはアシモフが言っていたらしいんですけれど、たとえば「ロボット」と「道草」といった、異質なもの同士を組み合わせて話を考える。アイデアってこうやって作るんだと思いました。

 筒井さんのエッセイに「大衆小説は30歳くらいからじゃないと書けない」というようなことが書かれてあったんです。あ、それならまだ書かんほうがいいんやと思って。星さんも30代になってからデビューしているし、自分も30歳になってから小説家になろうと思いました。20代で活躍している作家もいっぱいいるけれど、自分は勝手にそう思ったんです。

 のちのち、高校時代だったかに世阿弥の『風姿花伝』を読んだんですが、「時分の花」と「まことの花」ということを書いている。若い時に評価されるとすぐ消えるから、真実の花をどう見つけるか、ということかなと思いましたね。それもあって、やっぱり小説は30歳になってから書こうと思って。小説家になれることは疑っていませんでした。自分でもどうかと思いますが、なれないという発想はなかった。

お笑いと小説

――学校の国語の授業は好きでしたか。

 全然好きじゃないです。それもひねくれていて。野坂昭如さんのエッセイか何かを読んでいたら、野坂さんの娘さんが、学校の授業で『火垂るの墓』を読んで「この時作者はどう思ったか」という問いが出たらしくて。「お父さんどう思ったの」と訊かれて「締切がバタバタでどうしようかと思ってた」と答えて、娘さんがそのまま書いてバツをくらったっていう。そんなもんなんやなと思いました。それで、テストの「作者はどう思ったか」という質問はいつも適当に答えて点数が悪かったです。

――野坂さんも読んでいたのですか。

 『エロ事師たち』を読んだら面白くて、それでエッセイも読んだんだと思います。他には小学校の時はSFばっかり読んでいました。ヴェルヌとかウェルズとかブラッドベリとかの、少年SFみたいなものを片っ端から読んでいました。

 いちばん好きだったのはフレドリック・ブラウンでした。『火星人ゴーホーム』とかってちょっとユーモアがあるんですよね。短篇の「危ないやつら」は、犯罪者が精神科の施設から脱走している町で、駅の待合室で二人の男が出会って、お互いに相手が殺人鬼ちゃうんかって疑心暗鬼になって、殺し合い寸前になっていく。そこに一人の男が来て...という話で、短い中にユーモアとサスペンスがある。いちばん好きなのは『73光年の妖怪』で、これは宇宙から来た知的生命体と物理学者の闘いの話なんです。サスペンス要素が強くて、その生命体は動物にとり憑いて操るんですが、次の動物に乗り移るためには、今とり憑いている動物が死ななくてはいけない。それで自殺させるんです。物理学者がその町だけ自殺する人間や動物が多いことに気づいて推理するんですが、実は、その時そばにいる猫に例の生命体が乗り移っているんです。学者はまったく気づいていないから、もうドキドキしましたね。それがサスペンスの面白さだと気づきました。

 ヒッチコックも、サスペンスとサプライズの違いを語っていますよね。たとえばある二人の男が会話をしている。その向かい合っている二人の机の下に爆弾がある。それを観客が知っているか知らないか。知らないと、突然爆発して観客は驚く。これがサプライズ。知っていれば、その二人の男がなんでもない会話をしていても、観客はいつ爆発するかとハラハラする。これがサスペンスで、断然サスペンスの方が面白い。ただの会話のシーンでも観客は興味をひきたてられますから。『73光年の妖怪』は後者をドンピシャでやっているんですよね。

――お話うかがっていると、創作に関する本やエッセイもいろいろ読まれているんですね。

 高校時代から10代の後半にかけて読んでいました。クリストファー・ボグラーの『神話の法則』とか。星さんの『きまぐれ学問所』はすごく参考になりました。さきほども言った組み合わせの法則とか、物事を逆さに見ることとか......。「南極物語」って、南極に残された犬たちがペンギンとか食べながら生き延びる感動の話じゃないですか。でも星さんに言わせれば、ペンギンの目線から見たらたまったもんじゃない。それで「探検隊」という短篇を書かれてますよね。

――お笑いも好きだったということで、学校で面白いこと言おうとするような子どもでしたか。

 内に秘めていたというか。斜に構える嫌な奴だったんです。全然明るくなかった。小説が好きだったから、面白いことを思いついても、それは作品として残すものでお喋りで披露するものって感じではなかったんです。

――中学時代はいかがでしたか。

 一回引っ越したら新しい学校が合わなくて、登校拒否になったんです。それでやっぱり本ばっかり読んでいました。中学になってからミステリを読むようになりました。ホームズとかポアロとか。ポアロが一番好きでした。やっぱり名探偵ってキャラクターなんだなって思って。ポアロってちょっと癖があるじゃないですか。しかもヘイスティングズって、ワトソンと比べるとアホさが目立つでしょう(笑)。ヘイスティングズのアホさもだいぶポアロシリーズの人気に繋がっていると思うんですけれど。そうした上で『アクロイド殺し』とか『オリエンタル急行殺人事件』とかがある。ミステリーで面白いことってもう全部クリスティーがやりつくしている。『カーテン』なんてもう、考えられないですよ。今後ミステリーを読んでもこれ以上驚くことはないんちゃうかって、びっくりしました。

 当時は他に、クイーンやカー、江戸川乱歩や横溝正史も読みましたが、あまりトリックとかフーダニットとかハウダニットには興味なかったですね。ホワイダニットが好みに合いました。

――中学校はそのまま通わなかったのですか。

 いや、2か月くらいで元の学校に戻ったんです。引っ越し先から通学時間はかかりましたけど、登校拒否するよりはいいですから。元の学校では歓送会もやってくれてプレゼントもいっぱいもらったのにすぐ戻ってきたから「なんやねんお前」って(笑)。なぜ戻ったのか言わないでいたら、「好きな子がいてその子のために戻ってきた」っていう美談になっていました(笑)。

――高校生活は。

 地元の県立高校に行きました。家から近かったし、部活もやっていないし、人生変わらなかったです。その頃はミステリーも読みつつ、夏目漱石とか太宰治とかも読みました。漱石は『吾輩は猫である』と『坊っちゃん』が好きですね。ユーモアがあるじゃないですか。あれは漱石も笑いながら書いたと思うんです。太宰治も『人間失格』とか『お伽草紙』とか『グッド・バイ』とかいった、ちょっと笑いの要素があるものが好きでした。『人間失格』なんて笑いながら読みました。だから、僕の中では小説とお笑いって一緒なんですよね。なのになんで今、そうなっていないのか不思議ですね。僕はユーモアのない小説って理解できないのに。

――本以外で夢中になったことはありましたか。

 漫画とゲームですね。漫画は「ジャンプ」世代で、ベタに『キン肉マン』や『キャプテン翼』などを読んでいましたが、いちばん好きなのは『ドラゴンボール』でしたね。やっぱり鳥山先生の絵の迫力とカット割りはすごい。あんなのができるなんて特殊能力ですよ。それで、サイヤ人たちがひとつの星を滅亡させて星を売っているという設定があって、そこにベジータのドラマが生まれていて、SFとして優れているなと思いました。トランクス編になると時系列をいじっていたりしているし、鳥山先生はすごくSFを読まれている方なのかなと思いました。

 ゲームは「マリオ」「ファイナルファンタジー」「ドラクエ」といった、みんながやるようなものを全部やってました。それとは別に、自分にとってエポックメイキングだったゲームがあって。誰も知らないんですが、「moon」というRPGがあったんですよ。通常のRPGの約束事を全部裏切っている内容で、勇者に殺されたモンスターたちの魂を甦らせていくんです。他のRPGだったら勇者が人の家に入ってタンスからモノを取ったりするのは当たり前なんですけれど、このゲームではそういう時に住民が「なにやってるんだ」って怒ってくる。ゲームでお笑いができるんやと思って、衝撃を受けました。

 僕の周りは誰もこのゲームを知らなくて、唯一知っていたのがツチヤタカユキという放送作家でした。「笑いのカイブツ」を書いた奴ですね。あいつも「あのゲームの話できたの浜口さんだけですよ」って言ってました。

――お笑いは相変わらず追ってました?

 追ってました。2丁目劇場の芸人が出ていた「すんげー!Best10」なんかで、千原兄弟とか、ジャリズムとかが合体ユニットでランキング競ったりしていて、これはドハマりしました。僕の世代の関西のお笑い好きは全員見ていましたね。ジャリズムがSFの設定の入ったシュールなコントをやっていたりして。

 中島らもさんを読んできたのでシュールなものも好きだったんですよね。シュールの流れでいうと、高橋源一郎さんの『さようなら、ギャングたち』を読んで衝撃を受けました。小説ってこんなこともできるんだと思って。むちゃくちゃなんだけれども印象に残る。

漫才作家になる

――高校を卒業した後はどうされたのでしょうか。

 小説を書くのは30代になってからだから、20代は何をしようかと思って。お笑いが好きだから放送作家になる道を探ったりもしたんですが、ゲームデザイナーがいいなと思って、コンピュータの専門学校に行きました。moonのようにゲームでお笑いができたらいいなと。SF小説を読み続けていたので、これからの時代テレビは古くなると思ったんですよね。だから放送作家ではなく、ゲームでお笑いをやろうと思ったんです。この路線は新しいなって。でもプログラミングが分からなくてすぐに断念して、放送作家になるためにカルチャースクールに行きました。

 ちょうどその頃、フランク・キャプラの映画「素晴らしき哉、人生!」を観たんです。それまではひねくれたもの、尖ったものが好きで映画も「イレイザーヘッド」や「エレファント・マン」とかが好きだったんですけれど、「素晴らしき哉、人生!」って洋画のベストテンなんかの必ず1位にあがるじゃないですか。それで一回くらい観なあかんと思って、観たらめっちゃ感動して。世阿弥の言う真実の花を咲かせるためには、こういうちゃんとした人間ドラマが書けないと駄目だなと痛感しました。それで、キャプラの映画をずっと観ていたら、彼の経歴に「ギャグマン出身」ってあったんです。喜劇作家だったんですね。あと放送作家は年を取ってからできるものじゃないし、芸人さんと一緒に仕事をするのはゲームでは無理だなと。それで、やっぱり自分も放送作家になろうと思いました。

――その頃はどんな読書生活を?

 19歳の頃、ネットカフェでバイトしてたんです。漫画を読むために(笑)。自分で揃えるのはお金がかかるから、店に勝手に仕入れて、むちゃくちゃ読書量が増えていました。ネットカフェでのバイト経験は大きかったですね。今の下敷きになっています。

――どんな漫画を読んだのですか。

 少女漫画系もいっぱい読んだし、楳図かずお先生の漫画を読んでびっくりしましたね。『わたしは真悟』とか『14歳』とか。楳図作品って最初はちょっと面白くて、途中からホラーになる。ホラーとギャグも近いものなんだなって発見しました。確かにアメリカのB級ホラー映画って、昔はちょっとギャグに近かったんですよね。スラップティックに近かった。ああ、ギャグ漫画では、いがらしみきおさんの『ネ暗トピア』がすごく好きで。

――『ぼのぼの』の作者の方ですよね。

 それよりずいぶん前の作品で、もっとブラックだったりエロかったりするんですよ。『ぼのぼの』が出た時に「こういうのも書くんや」って思いました。そこから四コマギャグ漫画を読み始めて、吉田戦車さんの『伝染るんです』なんかも読みました。ながいけんさんの『神聖モテモテ王国』も好きでしたね。へんな宇宙人と男子学生がいて、とにかくモテないというだけの話なんです。でも、ギャグのセンスが秀逸なんです。「三国志」のパロディが入っていたりして、ネームのセンスがキレキレすぎて。小説にしても絶対に面白いだろうと思う面白さ。あれもすごく影響を受けています。

――カルチャースクールではどんなことを学ぶのですか。

 授業は意味はないと思っていました。放送作家の先生が飲みに行くのについていってました。中島らもさんが何かのエッセイで、無職だった時にコピーライターになりたくて養成学校に行って、どうしたかというと、先生に気に入られようとしたみたいなことを書いていて。だから僕も、先生がトイレに行ったら一緒に行って、「昨日先生のやってる番組見ました、めっちゃ面白かったです」って、とにかくしゃべりかけたんです。そうしたら「浜口、ちょっと飲みにいくか?」となる。人間不信やったくせに、そういうことはできたんです。

 その頃ちょうどM-1が始まって、吉本のお偉いさんがきて、新しい漫才作家がほしいと言っていて。それで漫才を書いて気に入られて、放送作家になりました。それが21歳くらい。

――漫才って、本人ではなく作家がネタを作っていることが多いんですか。

 いや、それは昔の文化です。昔は秋田實先生のようなすごい漫才作家がいて、そういった作家が漫才文化が作られていったんですが、今の若手芸人で作家が書いたものをまるまるやる奴はいないです。音楽で、昔は作詞家作曲家が作っていたけれど、今はシンガーソングライターが多くなったのと同じ流れが漫才にもあるんです。

 僕が最初に書いたのは、大木こだま・ひびきさんの漫才でした。「チッチキチー」の人ですね。吉本の人に「誰が好きや」と訊かれて「こだま・ひびきさんです」と言ったんです。あの人たちはずっと同じパターンの漫才をやっているけれど、「じゃあ違うパターンのものを書いてみろ」と言われて、苦労して書いてオフィスに持っていったんです。そしたらオフィスから劇場に下りて楽屋の扉をコンコンってやって、中にこだま・ひびきさんがいて。「若い子が書いてきたので読んでください」って。お二人が「読むわー」って言って喫茶店に行って読んでくれたのは本当に感動しました。でも、読み終えてパタンと閉じて、「これはシンクタンクにやるわ」って。俺たちのネタじゃないって、全否定なんです。それまでとは違うパターンのものをと言われたから書いたのに、吉本のお偉いさんも「そうですよね~」って言っていて、むかつきました(笑)。大人ってそういうものなんだなと学びました。まあその台本のデキが悪かったのもあったんですけどね。

放送作家に転身

――それから、いろいろ漫才の台本を書いていたのですか。

 書いて、「ちょっと見せて」と言われて出す、の繰り返しで。その頃はまだ、YouTubeとかがないので、上方演芸資料館に通ってずっと過去の映像を見てネタを書き写して分析していました。

 でも、難しかったですね。よく小説で漫才のシーンがありますが、あれって実際のものと全然違うんですよ。読んでいて面白いものと、やって面白いものは違うんです。その違いを身に着けるまでにすごく苦労しました。それからテレビの仕事をするようになりました。関西の人しか知らないと思いますが、「クイズ!紳助くん」から始めて、そこから仕事がどんどん入ってくるようになって。

――相当忙しかったのでは。

 忙しかったですね。明らかに本を読むスピードが落ちました。その頃読んでいたのは、10代から読んできた山田風太郎の「忍法帖」のシリーズとか、吉川英治の『宮本武蔵』とか『三国志』とか『新・水滸伝』とか。歴史ものを読んでいたのは、やっぱりキャプラを観た時と同じで、人間ドラマを書ける作家にならないと長続きしないと思ったからです。デビューしてすぐ消える作家にはなりたくなかった。司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』とか『坂の上の雲』なんかも読みましたね。ドハマりしたのは藤沢周平さんでした。『蝉しぐれ』とか「隠し剣」シリーズなどを読みました。子どもの頃は読んでも人情の機微が分からなかったけれど、やっと大人の読み方ができるようになったなと思いました。

 夢枕獏さんも好きでした。キャラクターが魅力的で。そのあたりから小説におけるキャラクターというものを考えるようになりました。サイコダイバー・シリーズなんかは精神世界の話ですよね。筒井先生の『パプリカ』も好きなので、自分もいつか精神世界を舞台にしたものを書きたいと思って、そこからユングやフロイト、アドラーをすごく読んでいた時期があります。

 それと、やっぱり宮部みゆきさんですね。人間ドラマもミステリも、ここまで書ける人って稀有やなって。『火車』がすごく好きなんです。構成も完璧だし、あれを読んでほんと人間ドラマを書けないと駄目だって思いました。感情の起伏が書ける人というところでは重松清さんもかなり読みました。『とんび』が好きですね。お父さんと子どもの話ってやっぱりいいですね。こういう作品を書けたら作家としてずっとやっていけるんかなと思いました。

――星さんや筒井さんのようなものを書きたいとは思わなかったのですか。

 凄すぎるんですよね。彼らは宮本武蔵のイメージです。剛剣すぎて何も参考にならない。まさに武蔵にしかできない剣です。でも司馬さんや吉川さんは、読んでいると参考になるポイントがあるんです。そっちをちゃんと身に着けようと思いました。それと、漫才の台本を書いている時につくづく思ったんですが、シュールとか尖ったものは大多数の人には受け付けてもらえないんです。でも、昭和の名漫才師、いとし・こいしさんなんて、普通のことを喋っているだけなのにめっちゃ面白いんですよ。ボケなのか本当に言い間違えたのか分からないのにすごく面白い(笑)。そういうのも見ていて、ベタで先の展開が読めたとしても、それを面白く読ませるのが長く生き残れる人だ、って思うようになりました。そのために、一歩ずつ実力をつけていこうと考えるようになりました。

――その頃、もう小説を書いていたんですか。

 いや、まったく書いていないです。普通やったらそのまま小説家になれないパターンですよね(笑)。

 他に、放送作家をやっていた頃にハマったのは田中芳樹先生の『銀河英雄伝説』です。SFと歴史ものを融合させてこんなことができるんだと思って。ラインハルトも好きですが、僕はヤン・ウェンリーが大好きで。小説のキャラクターの中でいちばん格好いい。普段は昼行燈で、いざとなると実力発揮してっていう。

 あのシリーズはSFとしても歴史ものとしても、ドラマのある群像劇としても面白いし、戦術的なゲームとしても面白くて。当時、少年漫画では強者インフレが起きていたんですよね。主人公が強い敵を倒したら、さらに強い敵が現れる。この先どこまでいくんだっていう。それで超能力バトルとか、ゲームとしての面白さが書かれるようになっていった。そうしたことは小説では難しいかなと思っていたけれど、「銀英伝」ではそこも面白い。すごいですよね。

 田中さんには一回お会いしたことがあるんです。ヤン・ウェンリーのことばかり言っていたので「こいつ、ヤンのことしか訊いてこないな」と思われたんじゃないかな(笑)。 田中芳樹さんと筒井康隆さんというレジェンド2人に会えたので、満足でした。

――筒井さんとはお仕事されたのですか。

 「ビーバップ!ハイヒール」という番組で、筒井さんがレギュラー出演者やったんです。あの番組で星新一企画ができた時は嬉しかったですね。5年間くらい、年1回ほどの間隔で企画を出し続けて、5年目くらいでやっと通った。星新一さんは未来を予測していたという切り口で、ゲストに新井素子先生を招いて、筒井さんと新井さんで、星さんがいかにすごいかを語ってもらったんです。あれは放送作家時代のいちばんの思い出です。

 楳図かずおさんにもゲストできていただきました。打ち合わせの時、あの赤と白のシャツを着てらしたんですが、「暑いから1枚脱いでもいいですか」って1枚脱いだら、下にまったく同じ赤と白のシャツを着ていて。あれは笑いました。

予定通りの作家デビューと苦労

――小説を書き始めたのはいつだったのですか。

 29歳です。最初に書いたのが『アゲイン』でした。そろそろ30やからと思って書き始めたんですが、ほんまに忙しくて、書く時間を捻出するのが大変で。仕事しながら小説を書いている人ってどうやっているんやろと思います。

――最初に書いた作品でポプラ社小説大賞の特別賞に選ばれたということですか。芸人さんの話を書こうとは思っていたのですか。

 小説の新人賞を見ていて、専門分野を書いたものが受けやすいかなと思ったんです。新聞記者の方が新聞記者のことを書いたり、医師の方が医療分野の話を書いたり、弁護士の方が法律の知識を活かしたミステリーを書いたりしている。それだったら自分は芸人ものを書こう、という感じでした。

――普段台本を書くなかで、小説を書くというスイッチの切り替えは大変だったのでは。

 大変でした。小説と脚本って似て非なるものなんで。脚本はどう省略して端的に見せるかが大事で、小説は余白の部分が大切だったりする。はじめて小説を書いた時は、いかにも脚本家が書いたものという感じで、これは小説ではないな、と思いました。

――それにしても、30代で小説家になるという、計画通りですね。

 偶然うまいこといきましたが、よくなかったですね。何作か書いて、経験を積んでからデビューしたほうが絶対によかったと思います。デビュー前に書いてボツになった原稿が後から役に立ったとかいう人もいますが、僕はまったく何もなかったので。

――しばらく兼業で働いていたのですか。

 中途半端になるなと思って、放送作家はすぐ辞めました。それに、ちょうど子どもが生まれたので、子育てをちゃんとやりたかった。子どもを育てるって、その時にしかできないけれど、放送作家をやっていたらどうしても忙しいので。

――デビュー後はどういう作品を書いていこうと考えたのですか。

 階段を一段ずつ上がっていく感じでやろうと考えていました。『アゲイン』が一人称の男性視点だったので、次の『宇宙にいちばん近い人』は一人称の女性視点にしました。北村薫さんの『空飛ぶ馬』を読んで、男の人でここまで女性視点を書くなんてと驚いて、自分もこれくらいにならないとなと思って。次の『シンマイ!』は三人称、その次の『廃校先生』は三人称複数視点にして......と、毎回作家として実力をつける方法を考えながら書いています。そのなかで、まずはベタであっても人間ドラマをちゃんと書けるようになろうと思っていて。王道をまずは行こうと。

最近の読書、新作、今後

――デビュー後、読書生活に変化はありましたか。

 普段読まなかったものを読むようになりました。それまでは、この作家が面白いと思ったらその人の作品を遡って読んでいたけれど、プロになってからは売れてるものや流行っているものをなるべく読むようにしました。それで読んだ江國香織さんの『流しのしたの骨』がすごく好きでした。家族の日常の話なのに、キャラクターが個性的で、起伏のない物語なのにすごく読ませる。江國さんってへんな人を書くのがうまいですよね。『間宮兄弟』とか。

――映画は相変わらずお好きですか。

 好きですね。「ペーパー・ムーン」がすごく好きなんです。あとは「ニュー・シネマ・パラダイス」とかベタな名作とか感動作は大方見ています。

――「ペーパー・ムーン」は、詐欺師の男と少女が旅をする話ですよね。

 そう、大人と子どもの話がすごく好きなんです。それで僕も『お父さんはユーチューバー』という、父親と娘の話を書きました。

 それと、最近見たテレビアニメの「オッドタクシー」がすごかった。お笑い要素があってミステリー要素があって。アニメでこんな脚本が書けるんだって、びっくりしました。

――『22年目の告白 ―私が殺人犯です―』や、『AI崩壊』は映画のノベライズですよね。あれらはどのような経緯で書くことになったのでしょうか。

 映画「22年目の告白」は韓国映画のリメイクですが、プロデューサーからノベライズを頼まれて「自由にやってくれ」と言われたんです。それで、映画では端役だった編集者の視点で書きました。「AI崩壊」も同じプロデューサーで、それも「自由に書いてくれ」と言われたので、これも端役の雑誌記者をメインにしたりいろんなエピソードを加えたりと面白く書かせてもらいました。

 映像的な見せ方と小説的な見せ方の違いってありますけれど、僕はどちらのことも分かっているのでノベライズは得意なんです。ノベライズってそんなに売れると聞かないけれど結構売れたので、映像的な小説が書けるというのは自分の長所なんだと思います。

――デビュー10年、新作の『ワラグル』は漫才コンビの話です。区切のタイミングで、また芸人さんの話を書こうと思ったのですか。

 ここで一回集大成的なものを出そう、と思って書きました。『アゲイン』の時はまだ漫才師の話が書けなかったんです。漫才師の話を小説として表現するには視点を交互に切り替える手法がベストだとは思っていたんですが、まだそれを実現できる技術が身についていなかった。それで、あの時はピン芸人の話にしました。漫才師の話を書くまでに、10年かけました。

――賞レースに賭ける二組の漫才コンビが、伝説的な放送作家からそれぞれ正反対のアドバイスをもらって切磋琢磨していきますね。

 あれは一回やってみたかったんです。片方にはAの方法、もう一方にはBの方法を教えて闘わせるとどうなるかっていう。スポーツだとそういう教え方はなかなかないだろうけれど、漫才ならできるなと思って。

――他に、放送作家を目指す女性とその恋人の物語も進行しますね。彼女はラジオに投稿を重ねることでチャンスをつかんでいく。放送作家になるルートっていろいろですね。

 あの部分は過去の自分に対する励ましというか。放送作家って、元芸人が多いんですよ。特にネタに強い作家さんはそうですね。お笑いの経験者が多くて、僕は自分にそうした経験がないことにコンプレックスがあった。それで、芸人の経験がなくても実力のある放送作家になれるってことをちょっと見せたかったんです。

――タイトルの『ワラグル』は「笑いに狂う」という意味ですが、これは造語でしょうか。それと、作中、「ニン」という言葉が出てきますね。人間性、みたいな意味合いで。

 「ワラグル」は僕の造語です。濁点と「ら行」がある名前って、「ドラえもん」とか「もしドラ」みたいにヒットしたものが多いし、語感的にいいのかなという気がして。「ニン」は昔の関西芸人が使っていた言葉で近頃は使われていなかったんですが、ブラマヨさんがM-1で優勝した頃からまた復活してきた感じですね。ブラマヨさんの漫才って、あの人たちでしかできないじゃないですか。そういう時に「ニン」がある、といった使われ方をするんですよ。作家も一緒で、その人しか書けないものを書ける人が強い。「ニン」の必要性は、クリエイティブ全般に通じていると思います。

――長年お笑いに関わってきて、変化は感じますか。

 変わってきたと思います。ここ20年でいうと、以前はネタをやるのってテレビで売れるための最初のステップだととらえている芸人が多かったけれど、今は一生やっていこうという人がいっぱいいる。舞台を大切にする芸人さんが増えてきましたね。今はテレビがぐらつきはじめて、かといってYouTubeもどうなるか分からないから、やっぱり板の上に立つことが基礎体力になっているんです。原点に戻るというか。それで、今のM-1ブームがある。10年前だったら『ワラグル』のような小説は書けなかったかもしれません。

――集大成を書いた今、今後の階段についてはどう考えていますか。

 今後はシリーズものや、キャラクターものなど、今まで書いてこなかったものをやろうと思っています。10月に講談社タイガから『ゲーム部はじめました』というeスポーツの青春小説を出します。これはキャラクターもうまく書けたし、シリーズ化していきたいんですよね。それと、11月に双葉社からベンチャーキャピタルを題材にした青春ものを出す予定です。あとギャングものや、スラップスティックのギャグ小説やミステリーのシリーズもの、時代小説とかもやりたいです。書きたいものが多すぎて、なかなか追いつきません。

>「作家の読書道」のバックナンバーは「WEB本の雑誌」で