先日、「得意な料理は?」との質問を受け、はたと困った。好きな料理は、と問われれば、悩まずに回答出来る。なぜならそれは、私一人の嗜好(しこう)で決められるものだからだ。だが仮にも主婦歴十数年。時に怠けはするものの、一応、日々三度の食事を作っている身としては、毎日の料理は栄養と手間とその日の冷蔵庫の在庫に左右されるもので、もはや私一人の都合でどうこうできる相手ではない。
そもそも、「得意な料理」とはどういう意味なのだろう。辞書的な意味で言えば、「自信がある料理」を指すのだろうが、作った料理を食べるのが自分一人ではない以上、いくら自分が「得意」と思っていても、それが家族の口に完全に合致するとは思い難い。我が家においていつでも誰からも褒められる献立といえば、間違いなく既存のルーを放り込んで作るチキンカレーだが、少なくともインタビューにおいて求められている「得意な料理」はそれではあるまい。きっと三日間煮込んだビーフシチューとか、皮から作る水餃子(ぎょうざ)とかがふさわしいのだろうが、少なくともそれは私にとっては、日々の糧たる「料理」とは別種である。
幼い頃、料理とは大人だけが手掛けられる憧れの行為だった。だが次第に台所の手伝いをし、一人で料理を作れるようになり、やがてそれを他人に振る舞うに至ると、一旦(いったん)は自分だけの技術として獲得した「料理」は、途端にその意味を変じてしまう。
先日ドラマ化もされたよしながふみさんのマンガ『きのう何食べた?』の中に、同居中の恋人が留守の晩、普段は毎日様々に料理の工夫を凝らす主人公が、自分のために極めて簡単な料理を作り、「そういえば一人暮らしの頃の夕食はいつもこんなものだった」と呟(つぶや)くシーンがあり、分かる分かると頷(うなず)いた。結局、「得意な料理」を得意たらしめているのは、それを食べてくれる家族であり、やはりあの問いには胸を張って、「チキンカレー!」と答えるべきだったのかもしれない。私はいま、そうしきりに後悔している。=朝日新聞2021年10月13日掲載