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挨拶の正体 津村記久子

 自分は「挨拶(あいさつ)」という漢字が書けないことに最近気付いた。いや、本当は知っていたのだが、今まで書く機会がなかったから、ことさらに「挨拶」が書けないことについて考えずにきたのかもしれない。先日スケジュール帳に書き込むことがあって、この際だから書けるようになろうと漢字で「挨拶」と書いてみたのだが、「挨」も「拶」も、単体では書いたことのない漢字だなと思い至る。「あいさつ」ってめちゃくちゃよく使う言葉なのに、「挨」も「拶」も「挨拶」以外での活動は謎に包まれている。するとどうも、これまでの「挨」や「拶」への無造作な態度を豹変(ひょうへん)させて、きみどこから来たの? 普段何してるの?と激しく話しかけたくなってくる。

 引っ越しの際に漢字辞典を実家に置いてきてしまったので、国語辞典調べで申し訳ないのだが、「挨拶」という言葉はもともと、禅問答におけるやりとりに由来しているらしく、「挨」は推す、「拶」は迫るの意味があるそうだ。べつべつに意味を調べてみると、「挨」は「おす。せまる」で、個人的に驚いたことに「拶」も「おす。せまる」であるとのことで、えーまさか二卵性双生児なの?となんだか一杯食わされたような気分になる。そして「挨」も「拶」も、「挨拶」以外で目立った活動はない。「挨」と「拶」は、中身が同じで二人で一つ、「挨拶」という超メジャーな言葉の中だけで活躍しているようだ。「漢字界の一発屋」という言葉が頭に浮かんでくる。二卵性双生児の一発屋だ。1曲だけ〈挨拶〉という大ヒットがあって、それ以外の活動はしないまま今世紀まで食いつないでいる。

 これらの事情を知ると、これからも積極的に「挨拶」は漢字で書こうと思う。「挨拶」と書くたびに、わたしは〈挨拶〉でおなじみの!と自分のお店でマイクパフォーマンスをしている気分になるはずだ。そして二卵性双生児の「挨」と「拶」が、舞台袖から悠々と出てくる。実は他の仕事はほとんどしてない。=朝日新聞2021年10月27日掲載