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山本文緒の世界 不安、挫折、その先の愛しい光 作家・村山由佳

作家の山本文緒さん。先月、58歳で亡くなった=新潮社提供

 山本文緒さんの病状を、ほとんど誰も知らされていなかった。周りに気を遣わせるにはしのびないし、おしまいの日々はできるだけ心静かに過ごしたいからと、ご家族でそのように決めていたそうだ。

 私など親しかったとは言えない。それでも年齢や家が近かったぶん、買物(かいもの)に出た先でたまにばったり会えば、大根やネギを抱えながら互いの近況を伝え合った。私の猫は名を〈もみじ〉といい、彼女の猫は〈さくら〉といって、どちらも三毛だった。偏屈な愛猫のことを話すふっくらとしたお顔と、笑うたび容赦なく目尻に寄る皺(しわ)を、この先もずっと思い出すのだろう。

優しい嘘がない

 作品はしばしば恋愛小説として紹介されるけれど、山本文緒の小説は〈山本文緒〉というカテゴリーにしか分類され得ないと私は思う。

 大ベストセラーとなった『恋愛中毒』でさえそうだ。「どうか、どうか、私。これから先の人生、他人を愛しすぎないように」……。この独白に秘められた真相が明らかにされてゆく過程はあまりに切なく、読む者は内臓にかなりのダメージを受ける。読み心地が良いとは言えないのにページを繰る手が止まらず、初読の時ばかりか再読の際にも徹夜をしたのを覚えている。それこそ中毒性があるのだ。

 長い休筆期間の後、長編としては十五年ぶりに発表された『なぎさ』もまた、痛くて苦しい作品だった。芸人になる夢に挫折して会社員となった男、転がり込んできた妹に押しきられてカフェを始めることになる女。生きづらさを抱える登場人物それぞれが、何とか持ちこたえながらどこかに辿(たど)り着こうともがき、あるいは流されつつも一筋の希望にすがる。

 山本作品が読者を選ぶ場合があるのは、いわゆる優しい嘘(うそ)が微塵(みじん)もないからだ。冷徹非情なまでに人間の真実が描写されていったその先に、愛(いと)しい光や慈しみを感じ取れるかどうかは、読み手の資質に委ねられているとも言える。

あくまで言葉で

 そうして、いよいよ今年。春の「島清(しませ)恋愛文学賞」と夏の「中央公論文芸賞」、どちらの選考会でも、『自転しながら公転する』は見事、賞を射止めた。私はたまたまどちらの選考にも関わっていたが、いくつかの候補作の中でも最初からぶっちぎりの票を得ての受賞だった。

 地方の中都市の閉塞(へいそく)感。コンプレックスと自負という正反対のものにがんじがらめになり、先行きの不安や孤独への恐れに足踏みして町を離れることもできない若者たち。彼らの不器用な恋愛とすれ違いをぐいぐいと活写する中に、ぎくりとさせられるような箴言(しんげん)がちりばめられ、胸を抉(えぐ)ってくる。

 状況としての〈あるある〉を並べてリアルに見せるのではなく、作家特有の視線を小説世界の隅々に注ぐことで、あくまでも言葉と表現によって人間の内面を捕まえ、描出しようとする――その目配りと筆さばきに、選考委員全員がさすがの手練(てだ)れと唸(うな)り、舌を巻いたのだった。

 これまで、父や母や愛した生きものたちが穏やかに去ってゆく姿を見るたび、死とはそんなに怖いものではないと教えてもらっている気でいたけれど、突然の別れにはどうしても慣れない。この茫然(ぼうぜん)と立ち尽くすしかない喪失感、ぽかんと呆気(あっけ)にとられる寄る辺なさはやはり、残される側だけの苦しさだ。

 山本文緒・七年ぶりの完全復活、と喜んだ矢先だった。これからまた沢山(たくさん)の傑作が生まれてゆくのだと思っていた。

 惜しい。悔しい。そして、悲しい。

 けれど私たち読者は幸せだ。作家の肉体がこの世を去ってしまっても、作品は長く永く生き続ける。

 そのことだけは、嬉(うれ)しい。=朝日新聞2021年11月27日掲載