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なぜ国語に文学 情報化社会にこそ求められる異質な他者に触れ、心情思う奥深い知性 東京大学教授・安藤宏

大学入学共通テストの会場。全国で約53万人が出願した=15日、福岡市西区の九州大伊都キャンパス

 今、「国語」という教科で「文学」をどう扱うか、熱い議論を呼んでいる。

 幸田国広著『国語教育は文学をどう扱ってきたのか』は、戦後の国語教育が文学の「鑑賞」から「読解」へ、つまり「おいしいかどうか」から「食べ方」の教育へと変化してきた経緯を丹念にたどっている。結果的に『羅生門』や『走れメロス』など一部の教えやすい教材が定番化し、読解指導の硬直化を招くことになったのであるという。

 一時代前の人格主義、教養主義が教室の「文学」観を狭めてしまった経緯、また、人物の心情理解にこだわる「読解」が教材の幅を狭めてしまった弊害など、なるほど傾聴に値する指摘である。だが一方で、後半の論旨には素直にうなずけないものがあった。感動中心の文学教育では社会に役立つ論理を身につけることはできず、今後は文学と言語運用能力の養成とを区別し、情報化社会に見合った思考力をめざさなければならぬ、というのである。

 前半を読むと言語教育と文学教育との高度な融合を理想としているように読めるのだけれども、どうも後半の論旨はそのようには進んでいないようだ。「文学」と「論理」を分離すれば事態が解決するほど単純なものでないことは、昨今の教科書検定をめぐる一連の報道などからも明らかだろう。

まず「中身」から

 これに関連して紅野謙介著『国語教育 混迷する改革』は、こうした一連の動向に警鐘を鳴らしている。教材読解の比重を減らし、言語運用能力、コミュニケーション能力の育成に傾いていく動きへの批判である。もちろん「話すこと」「聞くこと」の育成が重要だ、という主張に反対する人間はいないだろう。だが一方で、人生でもっとも多感なこの時期、悩みや劣等感を多く抱えた高校生たちに教室で一体何を語らせようというのか、と紅野は問う。

 コミュニケーションのためにはまずカバンの中身が必要だ。先人の優れた文章の読解を通して異質な他者への理解を深め、世界の成り立ちについて考えていくということ。一時代前の文学主義に代わる、こうしたあらたな「人文知」の啓発にこそ、問題を解くカギが隠されているのではないだろうか。優れた文章の「読解」を通して身につけていく力と、自身の考えを周囲に伝達し、対話していく能力とは本来分かちがたく結びついている。

 真に恐ろしいのは両者を切り分け、何しろ情報化社会なのだから後者が大切だ、という論法に流れていく風潮だ。社会のあり方の本質に目を向けず、ただ「説明だけがうまい子」ばかりが大量生産されていく事態など考えがたいことである。情報化社会であるからこそ、異質な他者の心情に思いをめぐらしていく、奥深い知性が求められているのだと思う。

「読解」の大切さ

 その意味でも、渡部泰明ほか著『国語をめぐる冒険』は実践的な提案として楽しく読めた。「文学」と「情報」の切り分けに悩んでいる現場の教員にぜひ読んで欲しい一冊である。たとえば古典和歌を通して言葉の不思議に目をこらしてみよう、という呼びかけであるとか、「定番教材」である『山月記』にあらたな読みの可能性が秘められているという指摘など、「読むこと」の大切さにあらためて気づかせてくれる。

 文学教材が重要なのは、それが現代社会を生き抜く知恵と不可分なものであるからだ。言葉をコミュニケーションのツールとしてのみ扱ったとき、「国語」は死んでしまうことだろう。その意味でも幸田がその著の冒頭に紹介している、言語教育と文学教育とは本来一体のものである、という理念にあらためて立ち返りたいものである。=朝日新聞2022年1月22日掲載