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残された希望としての本 湊かなえ

 西村賢太さんが亡くなられました。とても親しくはないけれど、テレビ番組での共演を機に、対談等のご縁をいただき、新刊を送り合う際に短いメールのやり取りをする、私は友だちだと思っています。

 バラエティ番組では、他人の暴露話に誘導されることがしばしばありますが、賢太さんはそれについては静かに拒否し、かつ、場をシラケさせないために、自分をさらけ出して盛り上げていました。この人は、本物の私小説家だ! と心から感心したことを憶(おぼ)えています。

 武器は己の人生、そして、その人生には常に本があったようです。

 賢太さんの分身でもある小説の主人公、北町貫多は絶望的ともいえる人生を送っています。読んでいて苦しくなるような暴力的な描写もあります。しかしその中で、パンドラの箱に残された希望のようなものとして存在するのが、本なのです。

 私が文庫解説を書いた『蠕動(ぜんどう)で渉(わた)れ、汚泥の川を』は、貫多17歳の物語ですが、この年齢ですでにアパートの家賃を踏み倒して夜逃げをしています。ああ、と頭を抱えながらも、まだ最悪の状態ではない、と思えるのは、貫多の少ない荷物の中に文庫本が20冊もあることです。自分の人生を支えてくれるものが何なのかを理解している人は、そう多くありません。

 読者は、貫多が未来の西村賢太に繫(つな)がることを知っていて、そこに導いてくれるものが作中に登場するからこそ、安心して読み進めることができるうえ、気が付けば、バカ正直でダメ人間な貫多に、エールを送っているのではないかと思うのです。

 西村賢太の人生に本があってよかった。そして、自分の人生に西村賢太の本があってよかった。

 最後のメールは、暑い夏の日に届いたもので、お蕎麦(そば)について書かれていました。季節は逆ですが、部屋を暖かくして、冷たいお蕎麦をすすりながら、ご縁をいただけたことに感謝し、ご冥福をお祈りしたいと思います。=朝日新聞2022年2月16日掲載