米国出身のグレゴリー・ケズナジャットさん(38)は、第2言語の日本語で創作する作家だ。デビュー作『鴨川ランナー』(講談社)所収の表題作で、二つの文化のはざまで揺らぐ青年の心を繊細に描いた。
主人公は、日本語を学ぶ米国人青年の〈きみ〉。高校生のとき旅行で初めて京都を訪れ、夕暮れの鴨川に〈まるで御伽噺(おとぎばなし)の光景だ〉と心奪われた。念願かなって大学卒業後、英語指導助手として京都で暮らすことになる。
主人公の歩む道は、作者自身の経歴と重なる。米クレムソン大学を卒業後、2007年から10年間、京都で過ごし、同志社大で谷崎潤一郎を研究した。作品は、日本語でつづっていた当時の日記をもとに虚実を織り交ぜ、日本語で書き上げた。「第2言語で書くと、言語への構えが変わる。使いなれた決まり文句を捨て、より誠実に言葉と向き合える」
〈きみ〉という二人称による語りを選んだのは、「距離感がちょうどよかった」から。語り手と主人公、そして自身と主人公の境界線を「二人称が適度にぼかしてくれました」。
作中、再びあこがれの地を踏み、〈もはや、何も知らない部外者ではない〉と勇む〈きみ〉の思いは裏切られる。どれほど異文化になじむ努力をしても、困惑顔で応対されたり、物珍しがられたり。見た目の異質さゆえに〈ガイジン〉扱いされ、一人の人間としては受け入れてもらえない。
失望から閉じこもりがちになった〈きみ〉は、日本の文学作品を読みふける。読者として〈自分がいない日本語の世界〉を楽しむようになり、そして出会ったのが書くという行為だった。行き場を失い内側にたまった言葉を吐き出すように、一心不乱に文字を書き連ねていく。
「書き手というのは、話者と読者との間に置かれる立場だと思う」とケズナジャットさんは言う。「日本語で話すときは身体の異質性がコミュニケーションの妨げになる。読者は透明人間になれるけれど、その世界に参加できない。文字、特に活字は、異質な身体を隠しながら参加できる」
現在は東京に移り、法政大学の准教授として研究と創作を続ける。次回作として準備しているのは、故郷の米南部サウスカロライナ州を舞台にした小説だ。「外国人が日本語で書くとき、日本について新しい視点で書くことを期待され、それが一種の型になっている。そこから逸脱してみたい」。より自由な表現へ、意欲を燃やす。(尾崎希海)=朝日新聞2022年3月23日掲載