1. HOME
  2. インタビュー
  3. 作家の読書道
  4. 岸政彦さんの読んできた本たち 「声」が集まっているというだけで、うっとり

岸政彦さんの読んできた本たち 「声」が集まっているというだけで、うっとり

>「作家の読書道」のバックナンバーは「WEB本の雑誌」で

世界名作全集で好きだった作品

――幼い頃の読書の記憶を教えてください。

 昭和の家ってよく、誰も弾きもしないアップライトピアノや、誰も見もしない百科事典があったんですよね。うちも文化資本の低い家だったのに、なぜか小学館の子供向けの世界名作全集(「少年少女世界の名作」)が何十巻か揃っていました。たぶん付き合いで買わされたんでしょうね。うちは五人家族で僕は末っ子だったんですが、なんでかわからへんけど僕は他の家族が誰も手をつけてなかったその全集を手に取って、小学校に上がる前に読破したんです。僕、家の中に居場所がなかったんです。放置状態で、犬と猫としか会話していなかった。それもあって手に取ったんでしょうね

――小学校に上がる前に一人で本が読めたんですか。

 幼稚園の時にはひらがなが読めるようになっていて、その全集は漢字も全部ルビがふってあったから読めたんです。いうても「西遊記」の子供向けバージョンとかですよ。「あしながおじさん」がすごく好きでした。ディケンズの「オリバー・ツイスト」とかユゴーの「ああ無情」とかもありましたね。「ドリトル先生」が好きだったので大人になってから井伏鱒二訳のものを全部買い直しましたが、あれは読み返して人種差別がひどいなと思いました。でも当時は動物と話ができるっていうのがよかったんです。日本の小説も入ってましたが、「坊っちゃん」は冒頭読んでくっそつまらんなと思った記憶がある。もっと、孫悟空みたいなむちゃくちゃな話が好きだったんです。そうだ、それで思い出した、「ほら男爵の冒険」が好きだったんですよ。主人公の名前がミュンヒハウゼン......って、50年ぶりに思い出しました(笑)。月に行って帰ってくる話なんて完全に物理の法則に反しているっていう。

 あの全集はよく憶えていますね。クリーム色の表紙で、二段組で。繰り返し読んだので、本を開いた状態をフォトグラフィックに記憶しています。「あしながおじさん」でジュディがバカンスのたびにロック・ウィロー農園に行くのは飽きたといってケンカする場面がページのどのへんにあったのかなんかも思い出せます。

 他に憶えているのは『星の王子さま』とか『おしいれのぼうけん』とか。『大どろぼうホッツェンプロッツ』もすごく好きでした。あれはドイツの話で、ソーセージとビールがめちゃめちゃおいしそうなんですよね。ソーセージをナイフで切って食うのにびっくりしました。箸使うんじゃないんだって(笑)。

――小学校に上がってからはいかがでしょう。どんな子供でしたか。

 学校は閉鎖的だし、勉強はつまらなかった。今に至るまで学校の勉強は一回もしたことがないんです。授業は簡単だったけれど暗記しないと点数が取れないから、テストの点は低かった。小学校に上がる頃には漢字も読めるようになっていたんですが、書く練習をしたわけじゃないから、読めるんだけど書けない。大学で教えるようになってからも簡単な漢字を間違って書いて、学生に爆笑されました。

 クラスメイトが何言っているかも分からなかったんです。小学校2年生の頃にみんながゴレンジャー的な番組の話をしていて、見たことがなかったから家帰って見てみたら、あまりに面白くなくてびっくりした。友達同士のけんかもつまらないし、仲いい友達もいたけれど遊びながらつまらんなと思っていました。

 ただ、ほぼ同時に生まれた女の子の従姉妹がいたんです。母方の従姉妹で、親同士が仲良かったんで、10歳くらいまではほとんど毎日一緒にいました。その子がもう一人の自分みたいな感じだった。それがのちに書いた「図書室」のモチーフに繋がっています

SFにハマる

――その頃の読書生活は。

 そんな親でも本は買ってくれたんで、小学生の時になぜかアガサ・クリスティーをほぼ全巻読んだんです。人間関係の描き方が好きだったし、女性の視点が入っているところもよかった。「あしながおじさん」の延長で、女性的な視点が好きだったようです。一緒に育った従姉妹の影響かなと思ってます。そこからミステリを読むようになり、ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』みたいなスパイものやサスペンスものも読みましたが、あまりハマらなかった。

 SFにはハマりました。「ほら男爵」の延長ですね。サンリオSF文庫、ハヤカワ文庫SF、創元SF文庫のメジャーな作品はほとんど読みました。ハインラインとかアーサー・C・クラークとか。ロバート・シェクリィやフレドリック・ブラウンがすごく好きでした。ロバート・シェクリィは『人間の手がまだ触れない』という短篇集に、ロボットと2人で月に行く話があるんです。主人公は最後死ぬんですが、教えた言葉しか知らないはずのロボットが、そこで突然聖書を暗唱しだすんです。誰もいない星の上で、祈りを捧げる。その話を死ぬほど繰り返して読んで泣いてました。フレドリック・ブラウンは『発狂した宇宙』が好きでしたね。レイ・ブラッドベリの『スは宇宙(スペース)のス』とか、あとはラリー・ニーヴンの、SFというかファンタジーの『ガラスの短剣』という魔法ものが結構好きだったかな。でもほら、名前何だっけ、ポーランドのSF作家がいるでしょう

――スタニスワフ・レムですか。

 そうそう、レム。あれは小学生の時に読んで一切分からんかった。もっとエイリアンが出てきてレーザービームとかで闘う話のほうが好きやったんで。

 当時、アメリカSF映画にもハマっていったんですよね。「ソイレント・グリーン」とか「ウエストワールド」とか。懐かしいなあ。それと、6歳の時に親父に連れられて場末の映画館で「007/死ぬのは奴らだ」とブルース・リーの「死亡遊戯」と「夕陽のガンマン」の三本立てを観て、「007」がすごく好きになったんです

――ジェームズ・ボンドがロジャー・ムーアの頃ですね。

 そう、だから僕にとって「007」といえばロジャー・ムーアなんです。次の「黄金銃を持つ男」は観てなくて、10歳で「私を愛したスパイ」を観てまたハマりました。あれはロータス・エスプリが潜水艇になるところが好きやった。でも「ムーンレイカー」で月に行くのはさすがにやりすぎだろうと思ってたら、次の「ユア・アイズ・オンリー」で最初の路線に戻った。

 小学4年生の時に「スター・ウォーズ」が公開されるんですよね。あれにはハマりすぎて、コカ・コーラの壜の王冠の裏側にキャラクターの絵がかいてあるのを袋いっぱい集めてました。まだビデオがない時代で、上映が終わると二度と観られないから、フィルムが中に入っていて手回しで10秒くらいの動画が見られる子供向けの玩具を頼み込んで買ってもらって、擦り切れるくらい見ていました。

 それとスピルバーグですね。「未知との遭遇」とか「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」とか。インディ・ジョーンズのシリーズは高校生ぐらいだったかな......。「E.T.」は中学生のときに一人で観に行きました。「E.T.」は完全に、形式としては犬と少年ものですよね。僕は犬と少年ものに弱いんです。それで思い出しましたが小学生の頃に「ベンジー」という映画があって、そこに出てくる犬が当時うちで飼っていたミニチュアシュナウザーにそっくりやったんです。あの映画も死ぬほど観に行きました。DVDは中古のやつが買えるけどネット配信はされてないですね

――中学生になると読書傾向は変わりましたか。

 筒井康隆にハマるんです。今読むと女性差別や障害者差別がひどくて読めないんですけどね。最初に読んだのは小学生のうちか中学生になってからか忘れましたが『虚人たち』でした。筒井康隆が最初に書いた純文学的・実験的作品で、「読む速度」と物語が進む速度を一致させてるんです。1分間の物語を、ちょうど読むのに1分間ぐらいかかる文章で書いている。つまり、物語のなかの時間と、それを読む時間が同期してるんです。

 それで途中、主人公が寝てたり気を失っている場面があるんですが、その箇所はページが空白になってるんですよ。寝てる時間が経過してるあいだ、読む方にもその時間が流れるようになってるんですね。普通に読んでいったら本の中に空白のページが突然出てきて、それにめちゃくちゃ衝撃を受けて、そこから筒井康隆の実験的な小説を読むようになりました。

 『虚航船団』なんかは『指輪物語』と同じ構造なんですよね。マクロの話とミクロの話が同時に進んで、最後は神話の領域になるっていう。他にもカギカッコの使い方が面白い短篇もあって、発話がだんだん地の文になっていく作品があって、それもすごく好きでした。カギカッコが閉じられてなくて、いつのまにか地の文になってるんです。

 たぶん、僕が今『東京の生活史』みたいな、コンテンツと形式を分けない書き方の本を作ったりしていることの根底には、そうした小説を読んだ経験があると思うんです。でもフェミニズムの本なんかを読むようになってからは、筒井康隆の小説のほとんどの女性の描き方が「聖なる母親」か「可愛らしい娼婦」のどちらかのパターンになっていて、主体的な行為者として表現されていないなと思うようになるんですけれど

――じゃあ、七瀬のシリーズとかは......。

 嫌いなんですよ。好きなのは実験的作品です。あとは物語性の強い中編、たとえば『大いなる助走』とか「三人娘」とか「村井長庵」とか。でもまあ、影響を受けたのは『虚人たち』ですね。

 その後は小松左京にハマりました。小松左京は根が明るくて、人間に対する希望がある。暗い話をいっぱい書いているけれど、スケールの大きな大らかな人やったんやろうと思う。僕は「少女を憎む」という短篇に一番影響を受けてますね。どこかに書きましたけれど

――「給水塔」(『図書室』所収)に書かれていましたね。 

 ああそうでした。他には、僕は近代文学を体系的に読んではいないんですけれど、中学の時に読んだ二葉亭四迷は好きでした。それと野坂昭如。そうそう、中学の時に野坂昭如や田辺聖子、筒井康隆、小松左京を読んで大阪の地名がインプットされていったんです。最初に大学受験で大阪に来た時、ここが曽根崎か、ここが淀屋橋かって、謎の感動をしました

――野坂さん、田辺さんで好きだった作品は。 

 野坂昭如は『エロ事師たち』。あれは千林の話でしょ。『火垂るの墓』も面白いし泣くけど、神戸の話やし。田辺聖子は読んだけれどあんまり憶えてない。小松左京と筒井康隆は、エッセーに出てくる大阪が好きやったんです。筒井康隆の父親は天王寺動物園の園長やったんですよね。小松左京は大阪の町工場の息子で、京大でイタリア文学を専攻した。でも実家は戦後すぐに破産して、彼も苦労するんですよ。だから小松には「庶民が生きていくためにはカネ大事じゃん」っていう商売人のノリがある。僕、今でも、「経済成長しなくていい」とか「お金を追い求めすぎて心が貧しくなっている」とか言ってるインテリの人がいると、なに言うてんねん、と思います。小松は戦争中の軍国主義も描いていますが、戦後の復興期のほうが辛かったって書いてますね。戦後のほうが人間のドロドロした部分が出てきたって。「少女を憎む」もそういう話やし。

 ただ、こうした小説を読んだからといってそんなに「大阪!」とはなってないですよ。後から考えたら中学の時にいろいろ大阪の話を読んでいたな、っていうだけで

社会問題に目覚める

――他にはどんな本を読みましたか。

 中学に入ってからは左傾化して、本多勝一とかのノンフィクション、ルポルタージュを読んで社会問題に目覚めていくんです(笑)。本多さんの『日本語の作文技術』は一読してすごく勉強になって、いまだに院生に薦めているんですが、それ以外の社会問題の本も読んだし、あとは鎌田慧さんの本ですね。鎌田さんってわりと人の生活史を聞く人なんです。それと、『わが亡きあとに洪水はきたれ!ルポルタージュ巨大企業と労働者』の斎藤茂男さん。当時の貧困についても子供の視点からルポしていたりするんです。そこから、僕、スタッズ・ターケルにハマるんです

――さまざまな人の話のインタビュー集をたくさん出している人ですよね。

 当時は晶文社からいっぱい翻訳が出ていたんです。『仕事(ワーキング)!』とか『アメリカの分裂』とか『よい戦争』とかいろいろあったのに、もう翻訳権が切れちゃったらしい。僕は高校生くらいの時に、当時翻訳が出ていた本は全部買って読みました。人に話を聞いて、モノローグの形に編集してはいるけれど、解釈とか説明抜きでそのままを書いている。とにかくたくさん本を出している人で、これなんかは普通の評伝ですけれど(と、モニター越しに本を見せる)

――『ジャズの巨人たち』。なぜ、彼の本がそこまでよかったのでしょうか。

 スタッズ・ターケルに出合う前の中学生の頃、「ポンプ」という雑誌を毎月買っていたんです。薄くてペラペラで、表紙から裏表紙まで全部読者投稿だけなんですよ。ほんまにいっぱいの人が書いていた。テーマもなくて、ギャグやったり思い出話だったり病んでるような長文だったりの寄せ集めなんです。眺めているだけで、ざわざわって声が聞える感じがして、わーっと感情が揺り動かされていました。よく憶えてるんですが、夜中にそれを机に並べてうっとり見ている気持ち悪い中学生だった(笑)。それが今の自分の仕事の源流だと思うんです。ひとつひとつはしょうもない、一個一個は読む必要もないものが集まった時の効果というか、コンセプトにうっとりしていました。ターケルにもそういうことを感じたんだと思う。

 自分が作った『東京の生活史』も、声が集まっているというだけで僕はうっとりするんです。あれは一個一個読んでも面白いという奇跡的な本ですけれど。考えてみると、中学の時に出合った「ポンプ」とターケルのような仕事を、自分は今してるんやなと思う

――『東京の生活史』は岸さんが企画して編集された、150人の聞き手が150人の語り手の生活史を書き留めた膨大な一冊ですよね。もうその頃から人の話に耳を傾けることに興味があったんですね。

 ターケルの本を読んだ時に明確に思ったのは、自分もこういう本を作りたいってことでした。あの時に自分は本を読むというより、本の作り手になるんだと思った。そこまではっきり思ったのは高校生の時だったかな。

 人の話を聞くにはどうしたらいいかと考えた時、鎌田慧や本多勝一の手記とかエッセーを読んで、こうすればジャーナリストになれるのかと思ったけれど、朝日新聞に入るのは競争率が高いし、東大とか京大とか出ないとあかんらしいけど(笑)、自分は受験勉強できないから無理や、と。あと高校生の時に、自分より二つ上の藤井誠二という人が本を出したんです。彼は高校生のうちに、竹刀持った体育教師がいるような厳しい管理教育の学校に飛び込みで取材した。そんなことは自分には絶対に無理だ、フリーのルポライターやノンフィクション作家になるような度胸はないな、と思いましたね。そもそも僕、人見知りなんです。だけどウェーバーとか、いろんな社会学の本を読んでいくうちに、大学行って社会学者になれば人の話を聞けるんじゃないかと思ったんです。純粋に社会学が好きになっていたし。それで、高校の時に社会学者になろうと決めました。

 フェミニズムについて読み始めたのも高校からかな。岩波新書の『女性解放思想の歩み』などの水田珠枝さんとか、上野千鶴子さんとか

――大変な読書家というイメージですが、どんな中高生だったんですか。

 中学受験という発想もなく、普通に地元の中学にいったらジャングルみたいなところで、本当に悲惨でした。校内暴力もひどくて、教師も全員バカ。学校の勉強も全然しなかったけれど、なぜか英語と数学の塾だけは通ってて、その時間だけ勉強して、それで英数国の試験を受けて、高校は進学校に進んだんです。国語は何も勉強していないから、当日のアドリブです。古文なんかは全然分からなかった。それでもいちおう合格しました。

 高校時代は、街に出て人がやってることが全部したかった。デートとか夜遊びとか酒とか煙草とか。中3の時にベースギターをはじめてバンドやって、高校の3年間はバンドばっかりやって、チケット売ってライブハウスでライブして。古着屋のゲイのお兄さんと遊んだりしていました。友人とディスコ、今でいうクラブですね、に通いまくって、人がやってるから自分もナンパもして。お嬢様女子高の女の子とも長く付き合いました。高校生活の後半は全然本を読まなかった。街で遊ぶのが楽しかったですね

ブルデューとの出合い

――進学先は社会学を学ぶことを優先して選んだのですか。

 東京の大学と関西の大学をいくつか受けましたが、全部、社会学部でした。東京の大学もいくつか受かったけれど、受験で訪れた大阪の町が面白かったので、迷わず関西大学を選びました。俺は一生大阪に住むんだと思いましたね

――なぜそこまで大阪に惹かれたのでしょう。

 東京も好きですよ。だから『東京の生活史』ができて嬉しかったし、いまだに住んでみたいとは思う。だけど、これ、もうネタとしてよく言ってるんですが、受験で大阪に来て天王寺のホテルに泊まった時、朝起きてニュース見たら発砲事件があって、その現場が泊まってたホテルの真横の路地やったんですよ。不謹慎ですが、おもろいとこやな、って思いましたね。試験受けた後はせっかく来たからひとりで街をウロウロして、ここが通天閣でここが新天地かって感動して、ジャンジャン横丁のお好み焼き屋に入ったら、おじいちゃんがボケ倒してるんですよ。「あー、ハタチ過ぎたらしんどいわ」って。それをおばちゃんがガン無視してるのもおもしろかった。

 いまだに思うけど、大阪って他人に対するハードルが低いんですよ。すぐ他人に話しかけてくる。それが抜群に面白いし、人見知りなのに人の話が聞きたかったから、すごくよかった。ある人から「岸さんが大学で東京に行ってたら潰されていたと思う」と言われたことがあるんですが、大阪に来て良かったって心から思いますね。

――大学生活はいかがでしたか。

 大学でジャズを始めてウッドベースを弾くようになり、ジャズミュージシャンやって月10万円くらいは稼いでいました。

 同じ時期に本格的に哲学、人類学、社会学の本を読むようになったんですが、大学にはほとんど行ってないです。昼は一人で本を読んで、夜はジャズミュージシャンをやって、毎晩のようにミナミで朝まで飲んでました。どっかのバーに行けば友だちが誰かいる。親友がピアニストで、大学1回生の頃から千日前のキャバレーで弾いてたので、給料日にはみんな楽屋の前で待ってて、そいつの金で朝まで飲んだりしてましたね。

 当時の大学って、教授たちも手を抜きまくってて、授業に出なくても単位が取れたし、レポートも何かの丸写しでよかった。むちゃくちゃでした。今から考えると、あんなのよくないと思う。今は大学の規則が多くて厳しすぎるとかいわれてるけど、昔に比べたら、やっとまともになっただけですよ。

 僕は社会学をやると言いつつ、デュルケムやジンメルにはあんまりハマらなかった。ウェーバーもよくわからなかった。ウェーバーのすごさがわかったのってほんと、ごく最近です。当時はどちらかというとレヴィ=ストロースが好きでした。でも、大学2回生の時にピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』の翻訳が出たんです。上下巻を一晩で読みました。読んだ時の自分の姿勢や服装やデスクの明かりまで強烈に憶えている。そこから、藤原書店から連続で出されたブルデューの翻訳は全部読みました。フランス語の原書までは手を出せなかったけれど、英語で出ているものはいくつか読みましたね。

――なぜそこまでブルデューが響いたのでしょうか。

 『ディスタンクシオン』を読んで、これは自分の話だと思ったんです。経済資本も文化資本もない環境で育って、たまたま高校で進学校に入ったとき、階層格差というものを目の当たりにしたんです。とにかく全員金持ちだったので。僕は階級格差、階層格差っていうものを、普通の人よりは見てきたと思う。ブルデューも小さな村の郵便局員の子供で、奨学金で学校に通ってコレージュ・ド・フランスの教授になるんですよ。

 そして、そうしてのし上がった人が、労働者階級に対して一切ロマンがない、というところが好きなんです。僕は左翼の本を読んでいても、「大衆の知恵」みたいなことが語られていると違和感あるんです。俺の見てきた「大衆」はぜんぜん違うよって思う。学校も地域も荒れていて、ひどい状況をさんざん見てきたから、「国家権力なんて要らない」「ヴァナキュラーな自治でなんとかなる」とか言っている人がいると、「人々に自治任せるとどうなるか知ってる?」って思う。その点、ブルデューは階級格差を批判的に描くんだけど、労働階級にロマンを持ってない。剝奪論的なところもあるしね。晩年、すこし変わりますけども。

 ブルデューも居場所がなかったんだと思うんです。彼はワンマン気質で、たぶん誰も信用せず、予算を獲得してヨーロッパ社会学センターを立ち上げて権威を獲得して、自分の帝国みたいなものを築いた。でもそれは、従来のアカデミズムに居場所がなかったからなんじゃないか。ちょっと前にフランスの社会学者のディディエ・エリボンの手記が出たでしょう(『ランスへの帰郷』)。あれには、ゲイをカミングアウトするよりも労働者階級の出身だってカミングアウトするよほうがよっぽど恥ずかしかったって書いてある。フランスの知識人階級って、労働者階級に対してそういう扱いなんだろうなと思う。

 そのへんが『ディスタンクシオン』にも書いてあるんです。あの本は、ブルデューのルサンチマンが爆発しているんですよ。だから好き。いつか自分もそういうことを書きたい

キング、ディック、ヴォネガット

――小説は読みましたか。

 1回生の時にスティーヴン・キングにハマって、いまだにハマっています。『IT』に出合ったんですよ。最初は近所の本屋で1巻だけ買ったんです。あっという間に読んで、うわー続き読みたーい、ってなったけど、もう時間が遅くて本屋が閉まっていて。翌日その本屋に行き、まあでも分厚いし1日1冊しか読めへんやろと思って2巻だけ買ったら、またむちゃくちゃ面白くて一気に読んでうわーっとなって、次の日には朝イチで、3、4巻を同時に買いました。その後、今でも繰り返し読んでいて、こないだは英語も読めないのに原書も買いました(笑)。でもどのページを開いてもちゃんとどのシーンかわかる。キングだけは原書が読めるんです、暗記するほど読んでるから。

 そこから日本語で読めるキングの本は全部読んだけど、今でも一番好きなのは『IT』かなあ。もともと少年少女ものに弱いし、後半の、大人に成長してからのノスタルジックな感じも素晴らしいです。昔のB級ホラーのモチーフをわざと入れているのも面白いですよね。フランケンシュタインとかドラキュラとか、全部入っている。

 大学時代、キングのほかにハマった作家がもう二人います。ひとつはフィリップ・K・ディック。『流れよわが涙、と警官は言った』がいちばん好きですね。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も好き。ディックって、辻褄合ってないところが面白いんです。たとえば映画観てて辻褄合ってなかったら「なんでやん!」ってなるけれど、ディックの小説って、何が起きても気にならない。楳図かずおと一緒。楳図かずおも『わたしは真悟』なんて「そんなわけないやん」と思うんやけど迫力で読ませるし『14歳』も話がむちゃくちゃなのに面白い。辻褄の合わなさってなんやろと考えるようになったのはディックを読んでからかな。説明のないものがすごく好きです。

 同じ頃にハマったのがカート・ヴォネガットです。刊行順に読もうとして、最初に『プレイヤー・ピアノ』を読んだんですが、めっちゃ面白いな、くらいの感想だったんですけど、次に『タイタンの妖女』を読んで、あれでむちゃくちゃハマりました。主人公が突然火星に行くのに、説明が一切ないんですよね。そのとき主人公が記憶を消されてるんです。その説明抜きに、いきなり火星で集団で体操している場面になる。そこがすごく好きで。

 それに、ヴォネガットの、何というかきれいごとを言わないところ、どこか醒めて、何かをあきらめているところが好きです。でも絶望とも違う。愛しあうとか理解しあうとか無理だけど、それでも犬とじゃれ合って床でごろごろしている時は幸せだからそれでいいんだよ、というエッセーがあって、あれがほんとに好き。愛とか理解は存在しなくても、でも犬と仲良くすることはできる

――大学を卒業してから、大学院に入るまではどうされていたんですか。2013年の最初の著作は『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』ですが、研究テーマに沖縄を選んだのはどういう経緯だったんでしょうか。

 大学出てからは、日雇いのドカタを4年やって、塾の先生のバイトやってバーテンダーのバイトやって......。

 最初に沖縄に行ったのは93年か94年ごろだと思います。米兵少女暴行事件の前だったと思う。それまで全然沖縄に興味なかったんですが、当時の彼女から「行こうよ」って言われたんです。ドカタやってて多少はお金もあったんで、本当に普通の2泊3日の旅行で。でも、空港降りた瞬間にハマっていました(笑)。彼女より僕のほうがハマった。たしか残波岬ロイヤルホテルに泊まって、シュノーケルしたり国際通り歩いたりして。それからも、お金がないときでもCDとか本とか楽器とかを売り払って、年2、3回は行って、離島を回ったりしていました。

 最初は観光でハマったんですよ。どこも画一的な日本のなかで、こんなに独特のところがあったんだ、海きれいだし気候はいいし、っていう。
たぶん、居場所がなかったんだと思うんです。自分自身が。大学院にも入れずに、定職にも就けず。ジャズミュージシャンをあきらめたのもこの頃で、ほんとうに行き場所がなくて辛かった。だからたぶん、日本のなかで独自のものを持っている沖縄に、自己を投影したんだと思う。

 でもそういう、沖縄の独自性にロマンを感じていた自分って、いまから思うと植民地主義まるだしだったんです。そういう自分に対する嫌悪感がある。だからフィールド調査をするにあたっては、基地の問題や植民地主義の問題を勉強して、そうした自分を否定する作業から始めないといけなかった。つまり、僕にとって沖縄の研究とは、沖縄にハマっていた自分を否定することだったんです。そしてそれはいまだに続いてる。

 沖縄の労働力移動をテーマにした博士論文を書いてから、それを本(『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』)にするまでに10年以上かかったのは、自分自身の植民地主義を乗り越えるということと、ちゃんとフィールド調査するということが、どうやったら両立するのか考えていたからですね。多くの人が、ポスコロとか左翼のイデオロギーにハマると調査をやめちゃうんですよ。基本的にマジョリティがマイノリティの生活の場にずかずかと土足で入り込んで調査するわけですから。

 でも沖縄での調査をやめる気はないですよ。やめたら僕の存在意義がなくなる。意地でもやります

話を聞くのが好き

――フィールド調査というものを始めたのはおいくつくらいからですか。

 博士課程に入ってからだから、29歳くらい。遅かったんです。はっきりと生活史という方法を意識していたわけではなく、普通の聞き取り、普通のインタビューから入りました。金がなかったんで大規模なアンケート調査もできないから一人ずつ会って話を聞くしかなくて。でも無意識のうちに「お生まれはどちらですか」から入って、気づけば生活史を聞いていましたね

――人見知りだったのに、はじめて会う人から話を聞き出すのはハードルが高くなかったですか。

 やっぱり、話を聞くのが好きなんですよ。大阪とか沖縄ってタクシーの運転手さんの話がめちゃめちゃ面白いんですよね。いろんな人がいる。商売に失敗した人もたくさんいるし。タクシーに乗るといつも話を聞きます。好きなんです。

 一度、沖縄で社会学者の友人と2人でタクシーに乗った時も、運転手さんに話を聞いていたら、降りた後で友人が「いいもん見してもらった。(自分は)あんなに聞けない」って言ってました(笑)。

 スナックに行っても、「へえー」って言ってずっと人の話を聞いてます。あんまり自分からは話しかけない。でもママとかマスターが話を振ってくれたり、向こうから話しかけてくれたりすると、ずっと聞いてます。

 社会学者が、どっかそのへんで聞きやすいところの話だけちょろちょろっと聞いて、それで調査した気になって「社会とは」って言ってたら「なにやってんだこいつは」って思いますよ。そういう人多いですから。学会行っても同じような奴しかいないからつまらないんです。北新地で飲んでいるほうが面白い話がいっぱい聞ける

――ところで、お酒強いんですか。

 弱かったんですが、頑張って人並みになりました。昔は生中一杯だけで潰れてたけれど、大学で毎週飲んで吐いて鍛えて、調子いいときはウイスキー1本ぐらい飲めるようになったかな。今、一番人生でお酒が強いんです。子供の頃は虚弱体質だったんですけれど、肉体労働やって変わって、年々体力がついて、今は風邪もひかないし、酒も強くなりました。連れあいは酒が飲めないから、数年前から一人で飲み歩くようになりました。一人で飲んでるときがいちばん楽しいです

――読書生活はいかがでしょう。

 小説はキングとディックとヴォネガットで止まって、あとはずっと仕事の本ばっかり。同じこと言う研究者多いんですけれど、研究の道に入るとなぜかフィクションが読めなくなるんです。一方で映画はいまだに好きで、ネトフリでマーベルとか見てますけどね。「アベンジャーズ」のシリーズは3周しましたよ。あれ15本あるんで45回観たってことですね(笑)

――読書とはちょっと違うかもしれませんが、岸さんはツイッターやブログもよく読まれている印象です。

 僕は自分はインターネットから出てきた書き手だと思っています。96年ごろにはすでに自分のウェブサイトを作っていたんです。無名時代の僕に声をかけてきた編集者さんたちも、僕が院生の時にネットの掲示板で暴れていたり、ウェブサイトでコラムを書いたりしているのを読んで、僕の名前を憶えていたそうです。

 僕がインターネットを始めた頃は、「ポンプ」みたいに無名の人がいっぱい好き勝手なことを書いていたんです。作品にもならないような、自意識丸出し、欲望丸出しの妄想みたいな書き込みがあふれていて、それがめっちゃ面白かった。僕も好き勝手なこと書いて炎上もしてましたけど(笑)。いまは炎上したら出版社に迷惑がかかりますから、ツイッターでも「にゃー」とか「酒うまー」ってつぶやいて「本が出ますー」って告知して終わり、みたいな使い方してますが。

 SNSになってからはみんなが叩き合いになっていて、マニアックなガラパゴスが消えましたね。人知れずやっている人たちも、ばっと見つけられて叩かれるようになった。SNSって冷笑的な奴が勝つから、それでみんな辞めちゃうんですよね。尖った、独特の表現はできないようになってる。SNSから、おもしろい表現者の方も、個別にはたくさん出てきてますが、全体としてはずいぶんおとなしくなったなと思って見てます。

 YouTubeやTikTokは、まだガラパゴスな人が多くていいですね。TikTokでは「横揺れ」が面白いんですよ。ヤンキーの子たちが安っぽいクラブで激しい横揺れで踊ってる動画がたくさんあるんです。なんの学びも気付きも、得るものも何もないけど、ずっと見てしまう。下手したら1日1時間くらい。こんなにTikTok見てる社会学者はいないと思う(笑)。

 小説は、自分で書くようになってから、勉強のために慌ててまた読むようになりました。でも、今喋ってて気づいたけれど、キングとブルデュー以降、「これすごいな」ってハマった書き手はいないかもしれない

小説を書く

――小説を書き始めたのは、編集者から「書きませんか」と言われたのがきっかけだそうですね。2017年に初の小説『ビニール傘』を刊行されましたが、それまで小説を書こうと思ったことはなかったんですか。

 最初、新潮社の田畑さんという編集者の方から「小説を書きませんか」と言われて「いやいやいや」と言ったんです。作家になりたいと思ったことは1回もないですから、驚いて。

 でも、やっぱり文章を書くことは好きだったみたいですね、子供の頃から。これは次の小説のモチーフにしようと思ってるんですけれど、小4の時に修学旅行に行って、帰ってきて作文を書きましょうとなったんです。みんな原稿用紙2、3枚なのに僕は家から出てバスに乗るまでで50枚ぐらい書いた。それでも終わらなくて締切も延び延びにしていたら先生が怒ったので、バスに乗ってからは2枚で終わりました(笑)。

 それと小6の時、SFを書いてましたね。ただの子供の落書きですよ。世界が滅亡した後に生き残った人たちがサバイバルしていくみたいな話。

 あと、これも最近思い出したんですけれど、僕は2006年、38歳ではじめて就職できたんですが、それまで極貧やったんです。2005年くらいの頃はこのまま一生非常勤止まりやなと思っていて、なんとなく文章で飯食えないかなと考えたんです。時代小説とミステリとポルノ小説はマーケットがあるから、ちゃんと勉強して真面目に書いたら、ある程度は「仕事」にできるんじゃないかと。そんな甘いものではないと、今ならわかりますが(笑)。

 そう思って、まず時代小説を何冊か読んでみたけど、江戸時代とかの歴史には興味がない。それでフランス書院の本を何冊か買って読んでから、ポルノ小説を書き始めたんです。

 書く前に連れあいに約束したんです。女性の人権に配慮した小説を書くって。それで50枚か100枚くらい書いたところでぽこっと就職が決まって、そのまま書いたことも忘れてました。確か編集の田畑さんから「小説を書きませんか」と言われたのが2014年くらいで、「いや、書いたことないですし」って言ってから、そうしたことをいろいろ思い出しました。

 『図書室』に入ってる「給水塔」というエッセーは、だいぶ前に書いて塩漬けにしていたものなんですが、あれを最初に書いた時に、これ小説になるな、とは思ったんです。それでとりあえず、こういう視線で、キーボードの上でこういう指の動かし方をすればいいんだなと思って、小説を書いてみる気になりました。

 最初はキングみたいなのを書きたかったんです。超能力者が出てくる話のプロットを書いて、大真面目に新潮社の田畑さんに見せたら反応がない(笑)。「ひょっとしておもんない?」って訊いたら、「おもしろくないことはないけど、向いてないです。私小説を書いてください」って。それで書いたのが「ビニール傘」でした。

 「ビニール傘」、ちょっと凝った書き方をしてるんです。一人称の「俺」の中身がころころ予告なしに変わるんですね。コンビニの店員だった「俺」が、いつのまにか建築労働者の「俺」になってる。そういう小説なので、「俺」という一人称が別の人物にどんどん「乗り移っている」ように読める。でも逆で、本当は「俺」の方は固定した一人で、逆に世界のほうが予告なしに移り変わっているんです。だから、本人はそれに気づいていない。世界が変わると記憶も人格も仕事も全部変わるんだけど、「俺」はずっと固定した一人なんです。

 『虚人たち』とか、パラレルワールドものとか、予告なしに場面が変わるヴォネガットの辻褄の合わなさとか、過去に読んできたいろんなSF的なところがそこに出てるんですよね。

 「ビニール傘」は、大学院の試験に沢山落ちて、建築労働者やってる頃の感覚で書きました。毎日違うメンバーで集まって違う現場に行って、その日が何曜日かも分からなくなって。自分が小さい歯車になって、このまま死んでいくんやなと思っていた時の感覚です。たとえば、学生さんとかが、社会勉強で一時期だけちょっとドカタやってます、というのとはぜんぜん違うんです。当時は、この生活が一生続くと思ってた。

 だから、最初に書いた「ビニール傘」って、僕の全部が入っている感じです。生活史とか、ブルデューとか、キングとかヴォネガットとかディックとか、街が好きなことや、大阪が好きなことや、行く場所がないこと......。江南亜美子さんと対談した時に「最初の作品に全部入ってますね」って言われたんです。江南さん最初「ビニール傘」を読んだ時、技巧に走っていると思ったらしいんですけれど、『図書室』や『リリアン』を読んだら分かった、って。そうなんですよ、全部繋がってるんです。同じ登場人物が出てくるし、犬猫は出てくるし、ずっと大阪が舞台だし

――小説を書いてみて、楽しかったですか。

 書くのは純粋に楽しいけれど、難しいです。『ビニール傘』はのびのび書いているけれど、『リリアン』になると小説っぽく書いている気がする。それがいいのかどうか分からない。小説として上手になっていってしまってもいいのか、と思います。

 同じことがエッセーでも書けるような気がするんですよ。小説じゃなくてもいいかもしれないと思ってしまう。フィクションである必要はなんだろうと。専業の小説家になりたいとは今でも思ってませんし。

 やっぱり、『東京の生活史』を作って、改めて社会学は面白いなと思ったんです。今、他にも社会学で大きな仕事をやっているし、今年こそ査読論文を書かないといけないし、今年度になって社会学に戻った気がしてます。
 だけど、実は、いま書いている最中の小説が2つほどあります。ひとつは1年以上止まってしまっています。自分のなかで書きたいことはあるんですが。なんだろう、疲れたのかな。文学も全然インプットできていないし、そもそも、俺が書かなくても面白いこと書いている人は他にたくさんいるから、自分が書かなくてもいいんじゃないかって思ってしまう

25年の集大成

――『東京の生活史』という大きな仕事をされた直後ですから、一息つきたい時期なのかもしれませんね。。

 あの本を出すために、25年間ずっとやってきた感じがします。出版不況のなかで、こんな無編集のモノグラフを、この厚さで、この値段で出せるなんて、誰も思っていなかったんじゃないでしょうか。僕が『街の人生』からずっとやってきたことって、この本を出す準備だったのかもしれないって思うんです。

 まあ、飽きたとかそういうことではなくて、休みたいんですね。書きすぎたんですよ。休みたい。一回世間から忘れられて、『街の人生』を20巻くらい、1500部売り切りみたいな感じで地味に出し続けたい。『東京の生活史』で僕が話を聞いたジャズドラマーの話の完全版も書きたいし。なんかもう、インターネットの中だけで、趣味でやってた頃に戻りたい気持ちが強くある。

 でもね、「本書いてください」ってメール、いちばん嬉しいんですよ(笑)。承認欲求がいちばん満たされる。だからいつまで経っても抱えてる仕事が減らない......。

 でもほんと、僕、48歳まで無名だったんです。最初の本を出したのが45歳で、48歳で出した『断片的なものの社会学』が紀伊國屋じんぶん大賞を受賞したぐらいから、急にお仕事が増えましたが。そんな自分が、筑摩書房みたいな、学生の時からずっと読んできた出版社から依頼をもらったり、学生の時から通って僕を育ててくれた梅田の紀伊國屋書店に自分のサイン本が飾られたり、なんか夢みたい。すごく幸せですよ。

 でも、48歳まで無名でよかったと思う。大阪の場末で誰にも知られず35年暮らして、世の中をゆっくり経験できましたから。大阪の街に育ててもらったんです。だから『リリアン』で織田作之助賞をもらったのは本当に嬉しいんです。もちろん『東京の生活史』でまた、じんぶん大賞をもらったのも嬉しいけれど。織田作之助賞は、はじめて大阪に褒められた、受け入れてもらえた気がしましたね。あの賞は今は関西に関連する作品縛りじゃないけど、でも大阪ゆかりの賞ですから。

 いますでにたくさんの出版の企画を抱えています。いろいろ迷いながらやってますけども。『断片的なものの社会学』の続きみたいなものを書く企画もあるけれど、ああいうスタイルでまた書くと狙っている感じが出てしまう。本当はイチからコンテンツを作りたいんですよね。珍しさがないとやりたくない。同じ本を作るぐらいなら、なんかマーベルみたいな映画を撮りたいという気持ちのほうが強い(笑)

――『東京の生活史』は、数年前にツイッターで「こういうことをやりたい」とつぶやいたことがはじまりで、そこからたくさんの参加希望があったそうですね。

 ああいうことをずっとやりたいなと思っていて、お酒飲んだ時にポロっとつぶやいたら、驚くほどの反響があった。それまでにも、大学の授業で学生さんたちを連れて沖縄に行って聞き取りをしてもらう、ということをしていたんですが、最小限のことだけ教えたら、とても良い聞き取りをしてくるんですよ。そういう授業をやっていくうちに、それまで自分がずっとやってきた方法も自分自身で言語化していくし、学生に教えることで、「人に話をどうやって聞くか」ということの、スタイルやノウハウが蓄積していた。だから、今度は大学の学生じゃなくて、一般の方と協力してやっていくこともできるはずだ、という思いがあった。

 私の方法論は、共著の『質的社会調査の方法―他者の合理性の理解社会学』という教科書になってます。

 そもそも、どういう心構えで何を聞くか、という、理論的で抽象的な方法論も書いてますし、それから例えば、ICレコーダーを出すタイミングとか、手土産の値段とか、現場でセクハラされたらどうするかとか、話を聞く時にカラオケは使いやすいけれどディスプレイがまぶしいから電源切れとか、一問一答にするな、とか、相手の喋る流れに身を任せろ、とか、そういう、テクニカルなことも含めて、私の方法のすべてがここに書いてあります

――聞き手希望者には、応募する時に誰に聞きたいかも挙げてもらったのですか。

 それも応募書類に書いてもらいました。「こんな感じの人に聞きたい」というのではなく、具体性がないと本当に話を聞きにいけるかどうか分かりませんから、調査の実現可能性みたいなことを重視した。480人分の応募動機を4周読んで200人に絞って、もっかい最初から読んで絞って、最後の最後は抽選で決めました。

 説明会や研修会、相談会も何度もやりましたが、僕からは最低限のことを伝えただけで、自由にやってもらいました。聞き手からの質問も原稿についての細かい質問が多かったですね。「ここの段落削っていいですか」とか聞かれて「好きなとこ削ってください」って答えたり。改めて、俺は要らんなと思いました(笑)。みんなが好き勝手に動いて、そしてみんな素晴らしい語りを聞き取ってくる。この本に関しては実質、僕は何にもしてないです

――なぜ「東京」にしたのですか。

 いちばんニーズがあるだろうと思ってはいましたが、作ってから、こんな分厚い本にこれだけ反響があって話題になったのを見ると、つくづく東京の人ってあらためて、「語られたことがなかった」んだと思いましたね。東京はいつも中心で中央で主体で、言葉を持っていて語る側で、語られる側ではなかった。東京で普通に暮らしている人って、何かの対象になったことがほとんどないんです。東京って「24時間眠らない街」みたいな語られ方をされるけれど、東京で普通に夜寝ている人のことは表現されていなかった。

 なんだろう。『大阪の生活史』だと「大阪の人」の話になっちゃうというか。言葉で表現しづらいんですけど、他の地域だと「その地域の人」の話として読まれてしまって、「普通の人」という読まれ方をしなかったんじゃないかなと思う。

 とりあえず、大規模な企画の最初の本としてと、東京から始めようと思ったんです。もし他の地域で続けられるなら続けたいです。実際に沖縄でもすでに始まってますし、できれば大阪でもやりたい

――ちょっと自分の話になってしまいますが、読んでいて「あっ」と思ったのが、聞き手の一人にすっかり疎遠になっている学生時代の友人がいたんです。それもあって、「ああ、これは隣人たちの話なんだ」という実感が強まったというか。

 そういう話聞きます。これ、知っている人が出てくる確率が高いんですよ。直接の知り合いでなくても、知り合いの知り合いまでいくと繋がりがある人は多いかもしれない。実際に、同じ学歴、階層、文化資本のひとたちって、社会的には閉じたネットワークを形成しがちなので、ひょっとしたらわりと狭い領域のなかで作られた本なのかもしれませんね。そういう意味でもこれは「東京の代表」ではないです。やっぱりブルーカラーの労働者の語り手があんまり入っていないし。

 まあ、それでも、これだけ多種多様な人びとがカバーされていて、自分たちの隣人が語っている、自分たちの隣人が聞き取っているって実感できる本って、これまでほんとになかったんだろうなと思います

――今、1日のタイムスケジュールはどんな感じですか。

 今年度、たまたまサバティカル(長期休暇)なんですよ。1年間授業がないので、昼は寝たいだけ寝て、夜は酒飲んでネトフリ観て、ツイッター見て......というマイペースな生活ですが、でもなぜかめちゃめちゃ仕事多いです。こういうインタビュー原稿の校正とか(笑)。他の本もたくさん並行して書いてますし、次の調査の計画も立てて資料も集めてます。結果的には、やっぱり今年度も「仕事ばっか」の1年でした

――せっかくのサバティカルがコロナ禍と重なってしまって、残念ではないですか。

 ほんとうに心からそう思ってます。10年に1回ぐらいしかとれない休暇なのに、今年度は1回しか沖縄に調査に行けなかった

――今度は『沖縄の生活史』を作るそうですね。

 復帰50周年を記念する『沖縄タイムス』の企画に、社会学者の石原昌家さんと一緒に、監修として参加しています。復帰の年(1972年)にちなんで聞き手を72人募集するつもりだったんですが、160人の応募があったんです。みんな応募動機が熱くて、絞れないんですよ。「母親に話を聞きたい」って言っている人も落とせないし、「おばあちゃんに聞きたい」って言っている人も落とせない。だから、人数を100人に増やしました。順次、沖縄タイムス紙上で記事にしていって、最終的にはみすず書房から一冊の本になる予定です。

 これからも生活史モノグラフを作っていきたいですね。たぶん一生この仕事をしていくんだと思います。

>「作家の読書道」のバックナンバーは「WEB本の雑誌」で